宇津戸の境界石(領家と地頭の領地の境界)

●宇津戸の境界石
住所:広島県世羅郡世羅町宇津戸
駐車場:不明

 海裏荘(うつとのしょう。現在の世羅町宇津戸)を領家と地頭が争っていたが、延慶2(1309)年に中分(人々が和解するために、中間をとって妥協しあうこと。また、その方法で第三者が仲裁をすること。特に鎌倉・室町時代には、所領争いの際に係争物を二分して、当事者双方に与える方法が多くとられた。また、当事者どうしの私的な和解の方法としても用いられた)が行われた。
 これには伝説があり、争っている両者に対してより上位の権力者が「境界線が分からない場合は役を取り上げる」と脅したことから、どうしてよいか分からなくなった両者が神に祈ったところ神の使いである二頭の白鹿が走り抜け、そこが境界線になったという。
 その境界線の目印となったのが境界石で、他にもあったと思われるがここだけが現存している。

境界石

参考文献:はしだ製餡所の公式サイト、広島県の地名

感想:世羅町の企画(山城探訪)に参加して通り過ぎた際、説明を受けました。


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備後山伝城(高橋式部大輔恭光の居城)

●備後 山伝城(さんでじょう)
住所:広島県世羅郡世羅町宇津戸
駐車場:不明
遺構:曲輪、竪堀
標高:341メートル/比高:38メートル

 永享年間(1429~41)、海裏荘(うつとのしょう。現在の世羅町宇津戸)の代官・高橋式部大輔恭光が居城にしたという。永正18(1521)年、今高野山城主・上原豊将(のちに毛利元就に仕え息子は元就の娘を妻としている)に攻められ落城した。

(全景)
全景

(主郭には祠が建っていた。竪堀は分からなかった)
主郭

主郭

主郭

主郭

参考文献:世羅町のイベントの資料

感想:世羅町の企画(山城探訪)に参加した際、訪れました。高橋恭光は名前からして石見高橋氏の一族のようだが・・・。出丸は場所が分からず撮影していません。

(縄張図)
縄張図


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千人塚(毛利尼子古戦場、山崎古戦場、府野(布野)崩れ)

●千人塚(布野崩れの戦死者埋葬地)
住所:広島県三次市布野町上布野
駐車場:南に公園用の駐車場があるが荒れている

 上布野地区は出雲南西部(現在の島根県飯石郡飯南町)との県境近くに位置する。
 天文13(1544)5月、尼子晴久は月山富田城を攻めてきた大内義隆や毛利元就を撃退し、吉田郡山城の敗北で失った支配地域を取り戻そうと企てる。同年7月、備後の比叡尾山城を攻撃するため尼子軍七千は出雲から南下し当地に陣を構えた。これに対して比叡尾山城主・吉田広隆と毛利から援軍の福原貞俊・児玉就忠の千人が迎え撃ったが、三吉川の霧のため2~3メートル先も見えない状況だったため尼子軍の先方に散々にやられ、貞俊と就忠が手傷を負うという敗北を喫した。しかし両将は「霧が晴れればこちらの数が少ないことがばれてしまう。傷は浅いので、もう一戦仕掛ける」と討ち死に覚悟で再度攻撃する。これも敗北したが、二度の勝利に尼子軍が油断したところを翌日に吉田広隆が攻撃し撤退させた。
 これを『吉田物語』では「御当家(毛利家)にて府野崩れと申伝候」と記している。旧地名にちなんで山崎合戦とも呼ばれる。千人塚は両軍の戦死者を埋葬した場所と伝わる。

(千人塚の横の道路。この辺りで戦いがあったのだろうか)
道路

(道路側に千人塚に登る道があったのだが現在は荒れていた。北側の墓地から登れば雑草が少ないので楽)
登る道

(塚(丘)の上。ちょっとした平地になっているので、ここは両軍どちらかの陣城だったのだろうか。滞在場所が必要だとすると尼子軍か?)
塚(丘)の上

(全景)
全景

(上布野地区の景色。建物のある辺りに広島県と島根県を結ぶ主要国道の54号が通っている。その手前に布野川が流れており、そこから霧が発生したのだろう)
上布野地区の景色

参考文献:吉田物語、現地の案内板、広島県の地名

感想:三次市は川に囲まれているためか霧がよく発生します。
 同時代史料がないかと思い検索してみましたが、吉田物語の他は陰徳太平記や安西軍策で見つけることができなかったです。