博奕尾(厳島合戦での毛利軍の進軍路)

●博奕尾
住所:広島県廿日市市宮島町
駐車場:不明

 天文24(1555)年、厳島合戦で包ヶ浦に上陸した毛利元就ら毛利本軍は山道を通って尾根に出た。そこで元就が兵たちに「ここはどこだ」と聞いたところ「博奕尾(ばくちお)です」と答えた。
「敵陣に向かう時に博奕尾に登ったのは敵に打ち勝つ前兆だ。源義経は勝浦に上陸して平家に勝った。我は博奕尾に登って敵に打ち勝つ。勇め」
 元就の下知に兵たちは勇気の微笑をした(『陰徳太平記』)

博奕尾

博奕尾

博奕尾

博奕尾

博奕尾

博奕尾

感想:人があまり通らないような道ですが、それなりに整備はされています。ただし道がいくつもあるため迷わないようにGPSの使用をお勧めします。
 私は弥山の登り口方面から行って包ヶ浦に出るつもりでしたが時間がなくて引き返しました。



安芸宮尾城(厳島合戦の舞台)

●安芸宮尾城
住所:広島県廿日市市宮島町
駐車場:なし
遺構:曲輪、堀切
標高:30メートル/比高:30メートル

 現在は周囲に店や民家が建ち並ぶが、戦国時代は周囲が海で岬のようになっていた。天文23(1554)年、陶晴賢との戦いを目前にした毛利元就が築城したという(以前からあり元就は修築しただけという説もある)。翌年、厳島合戦の舞台の一つとなったことで知られる。

(西の曲輪群)
西の曲輪群

西の曲輪群

西の曲輪群

西の曲輪群

西の曲輪群

(西の曲輪群に建つ今伊勢神社。厳島神社の末社だそうな)
今伊勢神社

今伊勢神社

(西と東の曲輪群の間にある堀切。この城の一番の見所だと思う)
堀切

堀切

(東の曲輪群)
東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

東の曲輪群

(東の曲輪群から見た瀬戸内海と廿日市市の市街地)
瀬戸内海と廿日市市の市街地

(西の曲輪群側の登り口)
西の曲輪群側の登り口

感想:厳島神社参拝の人混みに疲れた方が休む憩いの場になっていました。



才蔵寺(可児才蔵の墓)

●才蔵寺
住所:広島県広島市東区東山町1-11
駐車場:なし

 真言宗。戦いの時に討ち取った敵の首が重いため、あとで自分の功績だと分かるように首に笹の葉を咥えさせたことから笹の才蔵の異名で知られた可児才蔵吉長の墓が建つ。何度も主君を変えた才蔵だったが、最後は福島正則に仕え安芸に移り慶長18(1613)年に亡くなる。
 生前、才蔵は広島城の東の矢賀山に竹葉軒という山荘を持っており、慶長16(1611)年に出家して山荘跡に才蔵寺を開基していた。そして「死しても広島城の東から来る敵を防ぐ」という遺言通り才蔵寺に葬られている。

(入口にある交通安全災難除地蔵)
交通安全災難除地蔵

(石段)
石段

(可児才蔵の像)
可児才蔵の像

(才蔵の墓の入口。昔はここが峠道だったのだろうか)
才蔵の墓の入口

(入口にある延壽泉(ながいきみず)。通行人の喉を潤したという。割烹料理用に最適の水らしい)
延壽泉

(本堂)
本堂

(才蔵の墓。ここを通る武士で心ある者は馬を下りて水を供え花を手向けたと伝わる。墓碑には中央に「かにさいざう藤原吉長」、左右に「生国尾州葉栗郡楽典郷」「于時慶長十八年十一月廿四日」とある。墓の後ろに生えていた竹(通称・才蔵竹)には脳の病気快復に御利益があった。昭和時代も生前に才蔵の好物だった味噌を供えて祈祷する者が絶えなかったことから、現在はミソ地蔵が建てられ病気の他、受験や就職の合格に御利益があるとのこと。ただし受験や就職に関しては本番の緊張をほぐし自信を持たせて本来の実力を発揮させてやるのみ)
才蔵の墓

才蔵の墓

感想:昔、この辺りは才蔵嶺(さいぞうたお)や才蔵峠と呼ばれていた峠だったので坂が多く矢賀駅からキャリーバックを転がしながら参拝するのが大変でした。