大原古戦場跡(大保原合戦古戦場、筑後川合戦古戦場)

●大原古戦場跡
住所:福岡県小郡市小郡(字 前伏)
駐車場:なし

 正平14(延文4,1359)年8月6日、南朝方の懐良親王、菊池武光らは北朝方の支配する太宰府を支配下に収めるため、北朝方の少弐頼尚、大友氏時らと激突。両軍合わせて五千人以上の戦死者が出ている。
 大原古戦場は主戦場の一つで、字名の前伏は伏兵がいたところから付いたという。当地は小高い丘で見張り台となっており、明治44(1911)年に大原公園として整備された。

(中央にあるのが大原戦没史蹟上聞之碑。題字は政治家で軍人の菊池武夫という人らしい。武光の子孫のようだ)
大原戦没史蹟上聞之碑

(公園全景)
公園全景

(中央が大原古戦場碑。向かって左が平成21(2009)年の大原合戦六五〇周年に建てられた鎮魂の碑。右が六百年祭の記念碑)
大原古戦場碑

参考文献:福岡県の歴史散歩、福岡県の地名、現地の案内板、小郡市埋蔵文化財調査センター福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」、小郡市史跡案内 第2版

感想:開墾紀念や忠魂碑も含めて非常に碑の多い公園でした。



筑後 久留米城(篠原城、篠山城。久留米藩の居城)

●筑後 久留米城(篠原城、篠山城。久留米藩の居城)
住所:福岡県久留米市篠山町
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、門跡、虎口、櫓跡
標高:21メートル/比高:7メートル

 県指定文化財。永正年間(1504~21年)、松田某が築き篠原城と称したという。この頃の城は北に筑後川が流れ周辺は湿地帯だった。高良山との関係が深く天正年間(1573~92年)には高良山座主の良寛の弟麟圭が城主だったと伝わる。天正13(1585)年、龍造寺軍に味方した麟圭に対し大友軍に味方した良寛が攻めるが数年耐えたという。
 天正15(1587)年、筑後北部を与えられた小早川(毛利)秀包が入城し高良山座主になっていた麟圭を殺害したという。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは秀包が西軍に味方したため黒田如水軍に攻められ開城、やがて改易される。その後、筑後全域を与えられた田中吉政が柳川城に入り久留米城は支城となった。
 元和6(1620)年、田中氏が無嗣断絶になると翌年に筑後の北部と中部を与えられた有馬豊氏が久留米城に入り居城とする。これ以前に一国一城令で廃城同然となっていたが城の改修と城下町の整備を行い久留米藩の基礎を固めた。以降、明治維新まで有馬氏が城主を務める。
 明治時代以降は建物が撤去され、堀はほとんどが埋められた。

(南西の石垣と堀。場所は下の概略図を参照)
南西の石垣と堀

(南東の石垣と堀)
南東の石垣と堀

(南の冠木門跡。虎口になっている)
南の冠木門跡

南の冠木門跡

(太鼓櫓跡)
太鼓櫓跡

(中央に建つ篠山神社。祭神は久留米藩主だった有馬豊氏、有馬頼徸、有馬頼永、有馬頼咸と日本中央競馬会理事長などを務めた有馬頼寧で、明治10(1877)年に旧藩士と領民の有志が有馬家を追慕と感謝のため創建した。本殿・拝殿・中門・透塀は国登録有形文化財になっている)
篠山神社

篠山神社

篠山神社

篠山神社

篠山神社

篠山神社

(北に流れる筑後川を望む)
筑後川

(乾櫓跡。その付近には大乗院稲荷神社が建つ)
乾櫓跡

乾櫓跡

乾櫓跡

(城の北側)
北側

(艮櫓跡)
艮櫓跡

(城の東側)
城の東側

(月見櫓跡)
月見櫓跡

(城の東にある久留米大学医学部のグラウンド。古地図を見ると、ここはかつて濠と曲輪だったようだ)
グラウンド

(駐車場になっている蜜柑丸跡)
蜜柑丸跡

(小早川(毛利)秀包を祀る小早川神社。毛利元就の息子で小早川隆景の養子になり、大友宗麟の娘(洗礼名:マセンシア)を娶った。夫婦ともに熱心なキリシタンで石扉にはアンドレアス十字が刻まれている)
小早川神社

(東の石垣)
東の石垣

参考文献:福岡県の歴史散歩、福岡県の中近世城館跡、九州の名城を歩く 福岡編、福岡県の地名、現地の案内板、篠山神社

感想:駐車場が満車でどうしようかと思っていたら城内にも駐車が可能でした。
 載せてはいないですが城内には様々な碑がありました。

(概略図)
概略図



久留米水天宮(全国の水天宮の総本宮)

●久留米水天宮
住所:福岡県久留米市瀬下町265-1
駐車場:あり

 祭神は天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼。全国の水天宮の総本宮である。寿永4(1185)年、壇ノ浦の戦いで敗れた平家に同行していた按察使局伊勢は筑後川沿いの鷺野ヶ原に逃れ建久元(1190)年に水天宮を祀った。按察使局伊勢は剃髪して千代と改名し周辺の村民からの依頼で祈祷を行い尼御前と呼ばれ、やがて水天宮を祀った場所は尼御前神社や尼御前社と呼ばれるようになる。千代は平知盛の孫・右忠を跡継ぎにした。現在の宮司まで右忠の家系が続いているという。
 慶安3(1650)年、久留米藩の二代藩主有馬忠頼から拝領した現在地に移転。瀬下町が久留米からの物資の搬入出口になると水難除けの神として知られるようになった。寛延2(1749)年、大坂借船船頭中から神輿が寄進される。幕末の思想家の眞木和泉守保臣は22代宮司で、元治元(1864)年に長州藩士と共に禁門の変(蛤御門の変)を起こし敗れて自害した。
 現在は慶安3(1650)年の移転の祝いを契機として始まった筑後川花火大会などで賑わう。

(東の鳥居)
東の鳥居

(南の鳥居)
南の鳥居

(水天宮から見た筑後川)
筑後川

(昭和19(1944)年のフィリピン沖海戦で沈んだ軍艦千歳の碑。筑後川の別名・千歳川から名前を取った航空母艦で艦内には水天宮が祀ってあった)
軍艦千歳の碑

軍艦千歳の碑

(眞木和泉守保臣を祀る眞木神社。和泉守の門下生なども祀っている)
眞木神社

(復元された山梔窩(くちなしのや)。眞木和泉守保臣が筑後市に謹慎した際、周辺の者たちを教育した建物である)
山梔窩

(眞木和泉守保臣の像。有名な人物なのに参拝客のほとんどが素通りしていた・・・)
眞木和泉守保臣の像

眞木和泉守保臣の像

(参道と石橋)
参道と石橋

参道と石橋

(門)
門

(拝殿と本殿)
拝殿と本殿

拝殿と本殿

拝殿と本殿

(水神社。手前にある肥前狛犬は撫でて無病息災を願う)
水神社

(按察使局伊勢を祀る千代松神社)
千代松神社

(奉納された酒樽)
酒樽

参考文献:全国総本宮 水天宮、福岡県の地名、福岡県の歴史散歩、現地の案内板

感想:5月のゴールデンウィークに行ったのですが夏のように暑かったです。