博労淵の戦い

(ばくろうぶちのたたかい)

徳川軍蜂須賀至鎮・石川忠総軍(5300)
豊臣軍薄田兼相隊(700)
戦  場:摂津国博労淵

【博労淵の価値】大坂城の西南、木津川の中州に出来た島に博労淵と呼ばれる場所があった。豊臣軍はここに砦を築いて船場方面に橋を架け大坂城との連絡を可能にし、薄田兼相・米村六兵衛・平子主繕ら700人の兵を置いて、徳川軍に備えた。
 だが1614年の11月に入ってから木津川口の戦い鴫野の戦い今福の戦いなどで次々と砦を落とされ、博労淵の砦は意味のないものとなっていた。
 豊臣軍はそこで砦を放棄するべきだったがそれをそのまま放置していた。徳川軍もそれを重要視していなかったが、放っておくわけにもいかず砦の攻略を計画する。

博労淵周辺
現在の博労淵周辺

【誰が攻略するのか?】先の木津川口の戦いで船場方面が落ちたときに、逃げ遅れて阿波座に取り残されていた商人達が逃げ出し蜂須賀至鎮軍に博労淵の砦の守備が大したことはないことを告げた。そこで至鎮は婿の池田忠雄と共に博労淵の攻略しようと徳川家康に願い出た。
 それを聞いた家康は藤田信吉を偵察に出させた。戻ってきたきた重信は「私が前田利孝小笠原秀政浅野長重と共に攻略したい」と願い出たが、許可しなかった。そこで今度は水野勝成永井直勝堀直寄らを偵察に出させ、狗子島に仕寄を付けさせ、本多忠朝には博労淵の柵櫓を撃ち壊すように命令した。しかし忠朝は船がなかったのでこれを断り、次に同じ命令を受けた勝成もそれを断った。
 それを聞いた直勝が「私が撃ち壊しましょう」と願い出たが家康からの返事がなかったため、石川忠総を推挙し許可を得た。1614年11月28日、命令を受けた忠総は葦島に陣を置き、狗子島の陣所も兼任し、浅野長晟が後援についた。

伯楽橋
伯楽橋、こちらから東に徳川軍が攻めてきた

【士気上がらず】それを知った蜂須賀軍は「ここで他の者に博労淵の砦を攻略されたらせっかく先の木津川口の戦いでの手柄がなくなってしまう」と感じ、博労淵の対岸に仕寄をつけ、先に攻略しようと計画した。11月29日、石川軍は葦島の州から博労淵に渡ろうとしたが満潮のために進むことが出来ず、砦の兵に銃撃され大損害を出した。
 忠総も九鬼守隆から船を三艘ほど借りて狗子島の北から上陸、そして蜂須賀軍も船で博労淵に近づいた。この時、博労淵の砦の大将・薄田兼相は前夜から神崎の娼婦の家に泊まり込んでいて留守にしており、兵の士気がまったく上がらず、不意の攻撃もあって大混乱となった。そのため兵は砦を捨てて敗走し、あっさりと攻略されてしまった。
 徳川軍は勢いに乗じて逃げる残兵を追撃し、多数の兵を討ち取った。この時に葦に隠れていた平子主繕も池田軍に撃ち殺されてしまった。

博労淵の戦い・合戦図
博労淵の戦い・合戦図

【残るは大坂城のみ】この戦いで徳川軍が博労淵・阿波座・土佐座を占拠したため、豊臣軍は残りの砦について話し合った。七手組は「我々は前から守備範囲が広いのはよくないと主張してきた。ここは残った船場と天満を放棄して戦線を縮小すべきである」と意見を述べた。しかし大野治房塙直之は「接近戦をしないまま退却することは出来ない」と反対し結局は結論が出ず、治房は持ち場に戻ってしまった。
 そこで治房を快く思わない諸将は、治房を軍議だと言って呼びつけ、留守のうちに町家や軍営に火をつけ強引に撤退させた。これにより豊臣軍の戦線は大坂城のみとなった。

大阪市西区役所
大阪市西区役所、この辺りに博労淵の砦があったと思われる

管理人・・・この戦いって戦術的にあんまり意味がないような気がします。ただ薄田兼相が『橙武者』というあだ名をつけられたので割と有名です。でも豊臣軍を大坂城に押し込めた決定打になったという意味では重要な戦いかも、、、。

UPDATE 2002年11月28日
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