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だが1614年の11月に入ってから木津川口の戦い・鴫野の戦い・今福の戦いなどで次々と砦を落とされ、博労淵の砦は意味のないものとなっていた。 豊臣軍はそこで砦を放棄するべきだったがそれをそのまま放置していた。徳川軍もそれを重要視していなかったが、放っておくわけにもいかず砦の攻略を計画する。
それを聞いた家康は藤田信吉を偵察に出させた。戻ってきたきた重信は「私が前田利孝・小笠原秀政・浅野長重と共に攻略したい」と願い出たが、許可しなかった。そこで今度は水野勝成・永井直勝・堀直寄らを偵察に出させ、狗子島に仕寄を付けさせ、本多忠朝には博労淵の柵櫓を撃ち壊すように命令した。しかし忠朝は船がなかったのでこれを断り、次に同じ命令を受けた勝成もそれを断った。 それを聞いた直勝が「私が撃ち壊しましょう」と願い出たが家康からの返事がなかったため、石川忠総を推挙し許可を得た。1614年11月28日、命令を受けた忠総は葦島に陣を置き、狗子島の陣所も兼任し、浅野長晟が後援についた。
忠総も九鬼守隆から船を三艘ほど借りて狗子島の北から上陸、そして蜂須賀軍も船で博労淵に近づいた。この時、博労淵の砦の大将・薄田兼相は前夜から神崎の娼婦の家に泊まり込んでいて留守にしており、兵の士気がまったく上がらず、不意の攻撃もあって大混乱となった。そのため兵は砦を捨てて敗走し、あっさりと攻略されてしまった。 徳川軍は勢いに乗じて逃げる残兵を追撃し、多数の兵を討ち取った。この時に葦に隠れていた平子主繕も池田軍に撃ち殺されてしまった。
そこで治房を快く思わない諸将は、治房を軍議だと言って呼びつけ、留守のうちに町家や軍営に火をつけ強引に撤退させた。これにより豊臣軍の戦線は大坂城のみとなった。 管理人・・・この戦いって戦術的にあんまり意味がないような気がします。ただ薄田兼相が『橙武者』というあだ名をつけられたので割と有名です。でも豊臣軍を大坂城に押し込めた決定打になったという意味では重要な戦いかも、、、。 UPDATE 2002年11月28日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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