藤田信吉

(ふじたのぶよし)

生没年:1560〜1616年/ 身分:下野西方1万5千石の大名/ 官位(通称、号):能登守

【上杉家へ】小野康邦の次男。1579年に武田勝頼から沼田5700貫文と藤田の姓と能登守の官位を与えられた。1582年に武田家が滅ぶと上杉景勝を頼る。それから新発田家征伐、佐渡征伐、小田原征伐などに従軍し、1598年に上杉家に会津に移封されるとそれらの功で大森1万5千石を領した。

信吉と藤田家の墓
栃木県栃木市西方町元1739の実相寺にある信吉と藤田家の墓

【失態】1600年3月に上方と不穏な空気が流れると、景勝に上洛するように上申するが相手にされず、徳川秀忠のもとに走り「上杉家に謀反の動きがある」と告げ、大徳寺に入って剃髪し源心と号する。関ヶ原の戦い後、下野西方1万5千石を領した。1602年、佐竹義宣が秋田に移封された際に水戸城を守る。
 大坂冬の陣では秀忠について従軍した。夏の陣では河内方面の軍監として従軍したが、若江の戦い木村重成井伊直孝が激突した際、小笠原秀政らが攻めようとするのにそれを止めてしまうという失態を犯す。
 1615年に改易された。若江の戦いでの指揮の失敗を責められたとも、同年12月の大坂の陣戦功評議の場で失言があったためとも言われている。1616年7月14日死亡。原因は傷の悪化とも自殺とも言われている。下野西方の実相寺に葬られた。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・しぶとい戦国武将伝、ほか

UPDATE 2004年4月21日
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