野田・福島の戦い

(のだ・ふくしまのたたかい)

徳川軍:九鬼守隆・向井忠勝・千賀信親・小浜光隆軍(不明)
豊臣軍:大野治胤隊(不明)
戦  場:摂津国野田村・福島村

【伝法口の戦い】野田・福島は大坂城の西にあり、中津川と天満川の中間に位置し、東西南共に島と相対していた。この西南に豊臣家の船倉があり、その船倉の北が新家という地名だった。ここの守将・大野治胤は福島(守備兵2500)・新家(守備兵800)に砦を築き、五分一(ごぶいち、地名、兵数は不明)にも砦を築いた。そして安宅船1艘と大船10艘程を新家と上流の伝法に浮かべていた。
 1614年11月16日、徳川軍の九鬼守隆・向井忠勝・千賀信親・小浜光隆ら徳川水軍が約150艘で伝法口を攻撃した。この攻撃をまったく予想していなかった豊臣水軍は不意を突かれあっけなく敗退してしまう。伝法口を占拠した徳川軍は諸国からの入船を検問し、豊臣家に与しようとする者を海上から規制した 。

野田・福島の戦い、合戦図
野田・福島の戦い、合戦図

【大坂の陣最大の水軍戦】11月18日、向井忠勝・九鬼守隆ら徳川水軍は1600の兵で新家を攻めた。しかし西軍は頑強に抵抗し落とすことが出来なかった。だが、19・23日の再攻撃で新家の豊臣軍を撃退し占拠に成功している。
 25日に向井忠勝は野田口で、26日には九鬼守隆が福島口で豊臣水軍と戦い、数艘を沈めたり捕虜にしている。勢いに乗った徳川水軍1600は28日の夜、五分一に攻撃を開始した。これに対して豊臣軍は大野治胤率いる水軍が迎え撃ったが、数艘を捕縛されてしまい、治胤は逃げ帰ってしまう。これを見た砦の兵達は恐れをなし天満方面に逃亡し、この方面の戦いは終わった。

野田城跡
戦いの中心地辺り、野田城跡

【出遅れる】29日の朝、この五分一での戦いを知らなかった池田忠継軍5000は福島の砦を攻略しようと敵陣に発砲した。しかし応戦してこなかったので、そこが味方によって敵が撤退させられたことを知り、上福島まで進みそこを放火して陣取った。今回と木津川口の戦いの二つの戦いで豊臣水軍は壊滅し、制海権を完全に徳川軍に握られた。以後、豊臣水軍が行動することは永遠になかった。

上福島小学校
大阪市福島区福島にある上福島小学校

管理人・・・なんかこう盛り上がりに欠ける戦いですね。とにかく豊臣水軍が一方的に負けているだけですから仕方がないですが。一時は朝鮮半島にまで進出する戦力があった豊臣水軍ですが、大坂の陣当時は僅か20艘程度の一大名並みの戦力しかありませんでした。これは豊臣水軍が全国の水軍の寄せ集めだったからでしょう。以上、豊臣水軍負けまくりの野田・福島の戦いでした。

UPDATE 2002年2月8日
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