永井直勝

(ながいなおかつ)

生没年:1563〜1625年/ 身分:徳川宗家の家臣/ 官位(通称、号):右近大夫

勝入(池田恒興)塚
愛知県長久手町武蔵塚の古戦場公園にある勝入(池田恒興)塚

【恒興を討ち取る】長田重元の長男として三河大浜で生まれる。1576年から徳川信康に仕えたが、信康の自害後は一度大浜に蟄居する。1580年より出仕して徳川家康の家臣となり姓を永井と改めた。1584年の小牧長久手の戦いでは指を切られながらも池田恒興を討ち取り、その功で三河国内で千貫を加増されている。その後、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに従軍した。

【味方の動揺を抑える】大坂の両陣にも出陣し、天王寺・岡山での最終決戦では、味方の後方から謝って発砲があり混乱しかけた際にこれを鎮めている。1616年に上野小幡1万7千石の大名、1617年に常陸笠間3万2千石(内近江国内で2千石)の大名となる。1620年に福島正則が改易されると安藤重信や本多忠政とともに城の受け取りに向かっている。
 同年に常陸国内で2万石を加増された。その後、日光東照宮造営で奉行や、山形城受け取りの使者などを務め、1622年下総古河に移封され7万2千石を領する。1625年12月29日死亡。法名・大雄院殿永井月丹大居士。茨城県古河市の永井寺(えいせいじ)に葬られた。

永井直勝の墓
茨城県古河市西町9-33の永井寺にある直勝の墓

管理人・・・戦で活躍しているので武の部分だけ強調されがちな直勝ですが、細川藤孝から室町時代の古式や礼儀故実について講義を受け、それをまとめて家康に提出しています。
 井伊直政との間にこんな話しがあります。1601年の正月、直政が関ヶ原の戦いでの論功行賞について不満を口にしました。それを直勝は一喝。
「私達譜代の人間はどのような待遇を受けても不満を言うべきではない。それだけの自覚を持たないといけないのだ」
 感服した直政は、無理やり文琳の茶入を渡しています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2006年4月15日
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