蜂須賀至鎮

(はちすかよししげ)

生没年:1586〜1620年/ 身分:阿波徳島18万石の大名/ 官位(通称、号):阿波守

徳島城
至鎮が城主だった徳島市徳島町にある徳島城

【阿波の古狐の子】蜂須賀家政の嫡男。名前は豊雄・忠吉とも。8歳から豊臣秀吉に仕える。1599年に加藤清正らと組んで石田三成の罪を徳川家康に訴えた。1600年に家康の養女(小笠原秀政の娘)於虎と結婚する。関ヶ原の戦いでは東軍につき、野上に陣を構え南宮山の西軍に備えた。戦後、隠居した家政に代わって家督を継ぐ。1604年に阿波守に任ぜられた。

【冬の陣で大奮戦】大坂冬の陣では蜂須賀軍を率いて出陣し、木津川口の戦い博労淵の戦いで砦を落とす大活躍をし、徳川家康・秀忠親子から多くの感状を与えられる。しかし、そのために豊臣軍の恨みを買ってしまい、本町橋の夜襲戦で豊臣軍の夜襲を受けた。夏の陣にも出陣したが戦闘には参加していない。
 陣後、淡路を与えられて合計25万石の大名となった。1619年に福島正則が改易されると、不測の事態のために広島まで出陣する。1620年2月26日死亡。興源寺に葬られた。

蜂須賀至鎮の墓
徳島県徳島市下助任町2の興源寺にある至鎮の墓

管理人・・・至鎮は政治でも塩田の開発や非常時の食料の確保などに努めた名君だったと言われています。
 至鎮には関ヶ原の戦いで次のような話が伝わっています。上杉征伐に従おうとした至鎮に対して増田長盛が責めます。
「秀吉様の旧臣なのに家康に従うのか」
「私は豊臣家に背くわけではない。あなた達に与しないだけだ」
 至鎮はさらっと答えています。豊臣家の旧臣達はみんなこう言って自分を誤魔化して家康についたのでしょう。
 大坂夏の陣のことですが、他の史料では戦闘しているようなことが載っていました。
 以上、徳島市の基礎を築いた蜂須賀至鎮でした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・阿波人物誌・大坂の陣と徳島藩・戦国大名諸家譜

UPDATE 2006年2月6日
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