2015年庄原市史跡巡り(その3:講演会「厳島合戦と備後国」)

 東城町を後にして庄原市内の目指す。同じ市内なのにとにかく遠かった…。市街地に着いたらちょうどお昼になったので市役所前のお好み焼き屋で庄原焼きという物を食べる。御飯と野菜が入っていてポン酢で食べるという変わったものだった。
 それから前述のように図書館に移動して鹿介の首塚について調べてもらうが詳しいことは何も分からず、講演会「厳島合戦と備後国」の会場・庄原市ふれあいセンターに向かう。
 13時半に始まるにも関わらず、13時過ぎにはぼちぼち人が集まっていた。
 13時半になると主催の県立広島大学の紹介があり、13時45分頃から本題に入った。内容を要約すると以下の通り。

・毛利元就は陶晴賢の謀叛に加担しており、晴賢に呼応して広島市の安佐南区・中区・東区辺りを手に入れた。
・石見の三本松城(津和野城)の吉見正頼が晴賢に反旗を翻した時、隆元は元就自身が津和野方面に出兵することにくどくどと反対(資料として配られた隆元書状を後から読み直したら同じようなことを何度も書いていた)。理由は元就が行けば晴賢に捕まって毛利家が滅ぶから。最初からだと思うが、晴賢・毛利家ともに相手を信用していなかったようである。

・備後が不安定だと晴賢と戦う際に背後を気にしないといけない。そのため毛利家は尼子氏の配下だった備後の山内氏を味方に引き入れ、尼子氏に通じていた海賊・宇賀嶋衆(尾道市の向島の一部を本拠地としていた)を小早川隆景らが武力で制圧。これで備後は安定し背後を気にする必要は無くなった。

 他にもたくさんのお話しを聞けたが、主要な部分はこんなところである。
 その後の質問タイムでは一人目のおじさんが「毛利が…家紋が…世界平和が…」と質問と言うより演説を始めた。まあ講演会では良くある光景である。
 二人目も「厳島の戦い後に主君筋の大内義長がいた防長を攻めているが大義名分はあったのか」という今回とはあまり関係のない質問だったが(本人もそう言っていた)、一人目よりはましだった。
 それに対して講師の秋山先生は「大義名分は分からない。しかし徳山の辺りにいた陶一族を滅ぼすために防長に攻め込む必要があった」とはっきりしない答えをされていた。

 そんな訳で講演会は終了。高速を使って帰っても良かったが所要時間が同じだったので下道を通って帰った。「昔広島に住んでた頃、ETC割引や松江自動車道が無かったから、こうやって帰っていたなあ」とか思い出に耽りながら。下道も整備されてかなり走りやすくなっていた。
本日の感想:厳島合戦や毛利に関しては通説しか知らないので、当時の陶・尼子の動きも含めて勉強になりました。
 しかしどいつもこいつもあくどい連中ばかりだな…(褒め言葉です)。そして毛利家は手紙の内容がくどい。

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