萬祥山龍徳寺(山崎家盛の遺髪塔)

●萬祥山龍徳寺
住所:鳥取県八頭郡若桜町若桜665

 曹洞宗。譲伝寺の住職・琴霊長素が1529年に曹洞宗を普及させるため当地に来て教化し用呂村(鳥取県八頭郡八頭町用呂)に堂宇を建てたのが始まりだという。
 天正年間(1573~1591年)、三世・祖山宗印が高野村(鳥取県八頭郡若桜町高野)に移転する。移転した理由は分からないが時期的に豊臣秀吉の因幡攻めで損害を受けたのだろう。1602年、五世・観宗秀音の時に若桜鬼ヶ城主になっていた山崎家盛が帰依し、山崎家の菩提寺となって現在地に移され寺号も龍徳寺になる(龍徳寺は家盛の戒名説と父・片家の戒名説がある)。
 家盛の子・家治が肥後天草・讃岐丸亀に移されると一緒に移ったが、当地にも残っている。

(駐車場に入ると立派な鐘楼門が目を引く)

(本堂)

(山崎家盛の遺髪塔)

感想:歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。




鳥取城(山名氏・池田氏の居城)

●鳥取城
住所:鳥取県鳥取市東町2丁目

 戦国時代中期、山名氏が天神山城の支城として久松山に築城。1573年、鳥取城主・武田高信を追い出した山名豊国は本拠地とするため天神山城から移っている。
 それ以降、山名家は毛利・尼子残党(織田)を渡り歩いていたが、1580年に織田軍が攻めてくると降伏。その後、豊国が家臣によってを城を追われたため、豊臣秀吉によって兵糧攻めにあったことは有名だ。
 戦後、宮部継潤が城に入るが、息子・長房が関ヶ原で西軍につき改易される。その後は池田長吉が入り、1617年からは長吉とは別系統の池田氏が入り因幡・伯耆32万石の大名として明治維新まで城主を務めた。その間、城は何度か焼失と再建を繰り返している。1879年、軍の方針で建物は解体された。

(2014年の全国山城サミット鳥取大会で建てられた「とりのじょう」の砂像)

(城門)

(濠)

(石垣)

(三階櫓)

(鳥取城の石垣の石を採った石切場)

(天球丸跡)

(天球丸の巻石垣)

(本丸跡)

(秀吉の兵糧攻めに敗れた吉川経家の像)

(鳥取城(久松山)全景)

(鳥取城から市街地を望む)

(鳥取三十二万石お城まつりで復元された二の丸の櫓)

感想:ここは40分間の登山の末にたどり着きました。傾斜が急できつかった、、、。山城で一番辛かった。こりゃあ力攻めは難しいだろう。
 近くにやまびこ館という資料館があり、CG鳥取城やその中を探索できるなどという催し物があってなかなか面白かったです。
 最後に友達との会話を載せておきます。
 俺「う~ん、思ったより写すものがないなあ。どうしようか?」
 友達「いいじゃん、何も載せなくても」
 俺「何で?」
 友達「鳥取の名産は二十世紀梨。だから何も『なし』ってことで」
 おあとがよろしいようで。

 歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。




上永良神明社(加藤嘉明生誕地)

住所:愛知県西尾市上永良町宮東1番地

 859年の創建。江戸時代に徳川家の重臣・板倉家の領地となると庇護を受けた。賤ケ岳七本槍の一人・加藤嘉明は当地の出身で、1625年に本殿の改築を行なっている。そのため天照大神らと併せて嘉明も祀られている。

(鳥居)

(樹齢千年の大椎。神社よりこちらの方が知られている)

(拝殿)

(加藤嘉明生誕地の碑)

感想:板倉家の菩提寺・長円寺が近くにあります。


写真の提供についてはこちらをクリック