山名豊国
生没年:1548年〜1626年/ 身分:但馬七味6700石/ 官位(通称、号):中務少輔

【名家】山名氏は八幡太郎義家以来の名家で、室町幕府の時代には絶大な権力を誇っており、応仁の乱では西軍の主将として活躍した。だがそれ以降はどんどん勢力を縮められていった。
豊国は山名家の一つ、因幡鳥取の大名・豊定の息子として生まれた。母は管領・細川高国の娘。兄・豊数が家督を継いでいたが家臣の武田高信に鳥取城を奪われていたため、尼子残党に城を奪い返してもらい豊国が戦いの間に亡くなった豊数に代わって因幡の守護となった。だが毛利氏が因幡の勢力を回復すると毛利の傘下となる。
【変わり身の早さ】しかし1580年、今度は織田信長の配下・豊臣秀吉が山陰に進出して来ると、秀吉に降り因幡国内の2郡を与えられる。だが家臣達に鳥取城を追われ、鳥取城は再び毛利氏のものとなった。このため、鳥取城で壮絶な籠城戦が繰り広げられる。
秀吉の兵糧攻めが功を奏して落城したが、豊国には返してもらえず、彼はそのまま秀吉の御咄衆となる。関ヶ原の戦いでは徳川家について功があり但馬国七味で6700石を与えられる。大坂の陣がおこると家康に付き従い参陣した。1626年10月7日に死亡。

管理人・・・節操はなさそうですが時流に乗るのは得意だったらしく家を残しています。家を存続させることこそ戦国武将で一番大事なことだとすれば、立派に果たしているのでそれは評価されるべきかもしれないですね。
豊国にはこんな逸話があります。いつの頃か分からないですが、山名豊国は古い所々破れた羽織を着て家康の前に出ました。「それはどうした」と訊ねられたので「12代将軍足利義稙からいただいた物です」と答えました。それを聞いた家康は「古い恩義などを忘れず本に背かない者だ」と関心したという話が『常山紀談』に載っています。
以上、文化人としては一流だった山名豊国さんでした。
参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・戦国武将201 裸のデータファイル・大坂の役、ほか
UPDATE 2001年9月11日
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