伯耆 小松城(北朝の軍勢に攻められた南朝の城)

●伯耆 小松城
住所:鳥取県西伯郡南部町金田(字 吹屋、城ノ越)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、横堀、掘切
標高:62メートル/比高:28メートル

 城の西を金田川(宮谷川)が流れ、北西で小松谷川と合流している。
 建武3(延元元,1336)年6月30日、北朝の塩谷高貞に属した出雲国造の貞教(孝)が南朝方の籠もる小松城を攻め大手で合戦になっている(『千家文書』)。この時に籠もっていたのが小松城を居城としていた小松氏でこの戦いで攻め滅ぼされたと伝わるが『千家文書』には相手方の名前がない。奇しくも同日に伯耆の支配を後醍醐天皇から任されていた名和長年が京都で戦死している。
 戦国時代は毛利家の家臣・馬場原氏が城主だったという。

(入口。公園となっているので城の整備はされている)
入口

(金田川(宮谷川))
金田川(宮谷川)

(全景。中央の小山が小松城。向かって右手の辺りは字名が「土井(土居)」「荒神平」で屋敷、弓場、馬場があったと伝わる)
全景

(北側。最初、曲輪かと思ったが公園として整備された場所のようだ)
北側

(北側の曲輪(1)。場所は下にスクロールすると縄張図があるので、そちらを参照)
北側の曲輪(1)

(曲輪(1)の東にある横堀の入口。枡形虎口のように見えるが、雨で陥没しただけかもしれない)
虎口

(東にあるAの横堀)
Aの横堀

Aの横堀

(横堀を出たBの辺り。ここで一回、自分がどこにいるのか分からなくなった)
Bの辺り

Bの辺り

Bの辺り

(主郭。土塁が囲んでいる。調査の際、鉱滓(金属を溶融し精錬する時に出る、非金属性のかす)が見つかっている)
主郭

主郭

(Cの辺りの土塁の一部が削れていた。虎口なのか自然に崩れたのか不明だった)
虎口

虎口

(一段下がった曲輪(2)。主郭とここは公園の雰囲気がある)
曲輪(2)

曲輪(2)

(曲輪(3))
曲輪(3)

(主郭の西側のDにも横堀がある)
横堀

横堀

横堀

(Eの周辺は畑の跡や墓地があった)
Eの周辺

Eの周辺

(曲輪(4)の周辺。元々、出丸のようになっていたのか、Eの辺りが削られて残ったのかは不明。ここにも墓地があった)
曲輪(4)

曲輪(4)

曲輪(4)

曲輪(4)

曲輪(4)

(個人的に一番の見所だったFの大掘切)
Fの大掘切

Fの大掘切

Fの大掘切

Fの大掘切

((5)の曲輪群)
(5)の曲輪群

(5)の曲輪群

(5)の曲輪群

参考文献:鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)、鳥取県の地名、伯耆・出雲郷土史跡めぐり、新鳥取県史資料編古代中世Ⅰ、現地の案内板

感想:SNSで遺構が見応えがあると知り近場なので行ってみました。写真では伝わりづらいですが東西を切っている大堀切が見事でした。
 もう一つの目的は買い換えたD5600の撮影テストでした。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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