尼子再興戦と伯耆 その3(戦いの経緯2)

○東伯耆への侵攻
 尼子再興軍は西伯耆に続いて東伯耆(倉吉市・東伯郡と西伯郡の一部)にも侵攻。1570年3月には八橋城(東伯郡琴浦町八橋)や岩倉城(倉吉市岩倉)を攻撃しほどなく落城させている。毛利氏が伯耆で落城していないことを確認していたのは前述の尾高城・手間要害と羽衣石城(東伯郡湯梨浜町羽衣石)のみであった。
 毛利氏はこの状況を打破するため因幡からの攻撃を計画。鳥取城主・武田高信と鹿野城番・湯原元綱に援軍を要請したが、因幡でも尼子再興軍に味方する者達が蜂起し一時は「雲州至同意雖企逆乱候“鳥取一城”之儀老若堅固申談方々相勤候(『真継文書』)」とあるほど追い詰められ援軍どころではなかった。

(八橋城。伯耆の海沿いのほぼ中央に位置する要害だった)

(岩倉城全景。伯耆と美作を結ぶ要衝の地にあった。一説には再興軍に同調した美作や備前の浪人に落とされたという)

(羽衣石城遠景。毛利氏に従っていた南条氏の居城である)

 1569年10月~11月、勝久は東伯耆でも尼子氏に所縁のある光徳寺(東伯郡琴浦町公文)・定光寺(倉吉市和田)に安堵状を発行している。

(光徳寺の山門。勝久の高祖父・清定が寄進している)

(定光寺の本堂。尼子経久の肖像画を所蔵していることで知られる)


○参考文献など
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・因伯の戦国城郭 通史編
・鳥取県の歴史散歩
・会見町史 続編



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