風土記の丘史跡ウォーク(意宇平野の地形をさぐる)

 2014年5月25日(日)、『八雲立つ風土記の丘』主催の史跡ウォークに参加してきた。古代はまったく分からないが行けば教えてくれるだろう。
 昼からのスタートだったため途中にあった安来駅に寄る。

(安来駅に船のオブジェがあったがよく分からん)

(安来といえば安来節)

(最近、このキャラクターを頻繁に見かける)

(そして安来で忘れてはいけないのが尼子氏と山中鹿介。お菓子・お酒・ストラップなど定番のお土産があった)

 安来駅で食事を済ますと集合場所の『八雲立つ風土記の丘』に行く。
(資料館。古代に関する資料があったようだが、興味が無く見学はしなかった)

(敷地内にある推定復元した古代の建物と…)

(箱式石棺。これは本物で発見時には人骨が残っていたそうな)

 受付を済ませて13時になるとスタート。コースは風土記の丘~古代山陰道~意宇の杜~出雲国府跡~風土記の丘となっており、距離は約5キロだそうだ。今日は晴れておりウォーキングには良さそう。
 参加者20人くらいで古代山陰道を歩く。

(目の前の住宅地の中を古代山陰道が通っていたらしい。江戸時代は松江城などを中心としていたためルートが違う。資料館の方の話だと古代山陰道は、戦国時代には現代の表現でいうと国道から県道に格下げになっていたという。正面に見えるのは出雲茶臼山城で、古代山陰道を押さえる要衝として建てられたのであろう)

(出雲茶臼山城の主郭部にズーム。近所の方が伐採したらしくはっきりと見える)

(先ほどの住宅地の辺りから北側(日本海側)に向かって農道を撮影。この辺りが古代山陰道だったと推測されている)

(そして古代山陰道の辺りを歩く。今は平坦になっているが、開発された当時は左から右にかけてなだらかな坂となっていた。そこで田んぼに水を行き渡らせるために川のコースを中央の道の部分から右奥に変えたと推測されている)

(十字街(ちまた)。十字路になっており、東に行くと出雲国府、西に行くと出雲国分寺に辿り着く。今回は北に進んだ)

(意宇の杜に到着。『出雲国風土記』によると国引きを終えた八束水臣津野命が杖を突き立て「意恵(おえ、終わり)」と言ったところから意宇と呼ばれるようになったという。古代の新田開発の記念として残されたものが神話と繋がったと推測されている)

(出雲国府跡に移動。飛鳥時代~平安時代まで出雲国の中心であった。新田開発を終えた頃からこの辺りの有力者の館があり、それが国府になったという)

 これで史跡ウォークは終了。『八雲立つ風土記の丘』に戻って解散した。

(帰る途中にあった出雲国分寺跡)

感想:実地調査をしている方はこういう感じで一つの史跡や土地をじっくりと廻っておられるのでしょう。知らない時代なのもあって勉強になりました。


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