津山城(森忠政の居城)

住所:岡山県津山市山下135

 1441年、当地に山名氏が築いた鶴山城が始まりと伝わる。しかし山名氏の力が衰えると一度は廃城となった。再び城を築いたのは信濃川中島から移封されてきた森忠政である。
 1603年、小早川秀秋の改易後に美作18万6千石を与えられた忠政は、当初、津山の東にある院庄に築城しようとするが、重臣のもめごとなどで断念。続いて山名氏の支城であった鶴山城跡を津山と名を改め1604年から12年間の歳月をかけて築城した。忠政は他国の城の調査をするなど、築城に対する意気込みは並々ならぬものだったという。こうして1623年には町作りも終わり美作支配も安定してきた森氏であったが、忠政の男子がいずれも夭折していたため後継ぎがなく、忠政の姉の子・関成次の長男で忠政の娘を娶っていた森長継が跡を継ぐ。
 その後、その息子・長武、孫・忠継がいずれも若くして亡くなり、関衆利を養子として5代藩主にしたが精神を病んでしまう。そのため1697年に森氏は断絶してしまい、領地を没収される。だが、2代藩主・長継が隠居中で存命していたため特別に再興を許され、備中西江原から播磨赤穂へと移り明治維新まで続く。
 その後、津山城は1697年10月~1698年5月まで広島藩が城を管理していたが、越後高田より松平宣富が美作の内10万石を与えられ移封される。宣富は二代将軍・秀忠の兄・結城秀康の曾孫にあたる名門であった。松平家は一時5万石までに減らされるが、7代藩主の斉孝の努力で再び10万石へ復している。そしてそのまま明治維新を迎えた。
 廃藩置県で北条県となった津山藩は、1873年に城郭を廃城とし、1125円で土地と建物を売却した。1900年、当時の津山町は城跡を公園として公開し現在は桜の名勝として知られている。

(城趾碑と石垣)

(津山文化センターの辺りから撮った石垣)

(児島高徳の像)

(森忠政の像)

(二の丸門跡)

(切手門跡)

(表鉄門跡)

(2005年に復元された備中櫓)

(本丸から津山市を望む)

(天守台)

(骨組みの木材と発泡スチロールで作成された模擬天守。2013年に期間限定で設置された)

感想:延々と続く石垣が見所です。




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