因幡 唐櫃城(木原氏の居城)

●因幡 唐櫃城
住所:鳥取県八頭郡智頭町木原(字 宮郡家)
駐車場:なし
標高:71メートル/比高:294メートル

 当地を支配した木原氏の居城だったが美作から進出してきた草苅氏に奪われた。

(城の東にある水道局(だったかな?)の建物。唐櫃城を意識しているのだろうか)
建物

(全景)
全景

(麓にまとめられた五輪塔や宝篋印塔がある)
五輪塔や宝篋印塔

(山道の入り口には前回の2016年にはなかった柵があった。近所の方に聞いて開けて入ったが閉め方が中途半端で「開いたら害獣が入ってくるから」と注意された。山道は堀のように見えるが違うらしい)
山道

(②の帯曲輪。遺構の場所については下にある縄張図を参照)
②の帯曲輪

②の帯曲輪

(主郭の南にある⑤の曲輪。一角に平成元(1989)年に建てられた城址碑がある。これによると城の土地の一部を土師小学校(現在は廃校)の校長が昭和11(1936)年に寄贈したらしい)
⑤の曲輪

⑤の曲輪

(⑥の曲輪)
⑥の曲輪

⑥の曲輪

⑥の曲輪

(④の曲輪かと思って撮影したが良く分からんかった)
④の曲輪

④の曲輪

(主郭。南東に巨石があるが虎口だろうか)
主郭

主郭

主郭

(③の帯曲輪)
③の帯曲輪

(⑦の曲輪)
⑦の曲輪

⑦の曲輪

(①の曲輪)
①の曲輪

①の曲輪

(土師川の対岸にある城址碑。後ろに唐櫃城が見える)
城址碑

感想:歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


塚の宮(塚宮神社跡、船上神社、後醍醐天皇の女官伝説)

●塚の宮(塚宮神社跡。船上神社)
住所:鳥取県西伯郡大山町大塚(字 上乗リ来リ)
駐車場:なし

 元弘3(1333)年の初夏、気品のある女性が大塚(字 大雀)の地に上陸したのを、地元の五郎太夫が見つけ近寄った。
「自分は後醍醐天皇の女官で天皇にはお供させてもらえなかったため商船に乗って連れてきてもらった。天皇は伯耆にお着きになった後、どうされたか」
「船上山での戦いに勝利し京都に御遷幸された。あなた様が京都に戻られるまでの間、うちで休んでいって下さい」
「そなたの厚意に対して家名を与えよう。長く藤の蔓が延び栄えるように遠藤と名乗るがいい」
 しかし女官は長い航海のためか日に日に衰弱し、26歳という若さで亡くなってしまった。その後、石を集めて塚として女官を葬った。だが村人が石を持ち去ると女官が霊としてさまよい祟りがあったため、塚の宮聖御前(聖大明神)として祀ったという。
 明治元(1868)年、現在の社名に改めた。大正5(1916)年、押平神社(大山町押平)に合祀されている。現在、跡地には祠が祀られている。

 敷地内には船上神社が建っている。幕末、外国からコレラが入ってきて日本中で流行した。大山町に残る記録でも「安政5年(1858)秋、不吉の前兆とされた帚星が現れ、コロリと申す疫病が流行し米子や淀江で多数の死者が出た」とあり、コレラ(通称・虎将軍)を撃退するため琴浦町の船上山に祀られている船上神社を勧請する。これは狼が船上神社の神の使いで、狼は虎より強いと信じられていたためである。
 この狼信仰は琴浦町、大山町、米子市で見られコレラ、赤痢、チフスなど疫病が流行った際、狼(地元ではオオカミさん、オオカメさん)の礼拝物を船上神社から背負って勧請し疫病の沈静化などの願いが叶えば返還したという。稲の虫(イナゴやウンカか?)や西瓜泥棒の駆除退散にも御利益があると信じられていた。

(全景。いかにも神社がありそうな雰囲気で地元では塚の宮さんと呼ばれている)
全景

(境内。近所の燈籠などが無造作に集められているように見えるが・・・)
境内

(鳥居。塚宮神社の名残だろうか)
鳥居

(女官を祀る祠(塚の宮))
塚の宮

(これが女官を葬った塚だろうか)
女官を葬った塚

女官を葬った塚

(大塚村のサイノカミ)
サイノカミ

(昭和58(1983)年に再建された船上神社の祠)
船上神社

船上神社

(同じ年に再建された荒神社)
荒神社

(塚の宮に集められた五輪塔)
五輪塔

感想:大雀の由来は天皇の関係者が休まれたので「王涼み」と呼ばれた、清水を飲まれたので「王清水」と呼ばれた、などの説があります。

参考文献:鳥取県の地名、名和町誌、鳥取県神社誌、ふるさとを探ろう、大山北麓の民俗



軍馬補充部大山支部跡(用地の周囲を囲んでいた土塁)

●軍馬補充部大山支部跡
住所:鳥取県西伯郡大山町門前(字 長野)
駐車場:なし

 明治32(1899)年、兵庫県小野市から軍馬補充部青野支部を鳥取県西伯郡庄内村大字富長(大山町富長)に移し軍馬補充部大山支部と改称したのが始まり(その前に鳥取県汗入郡逢坂村(大山町逢坂)に青野支部の派出所があった)。
 鳥取県東伯郡琴浦町出上にあった赤碕派出所、岡山県真庭市蒜山上長田などにあった旭川派出所と合わせると73キロ平方メートルにも及ぶ広大な面積だった。
 明治38(1905)年、日露戦争で旅順を攻略した乃木希典は降将ステッセルから馬を送られた。希典の凱旋後、琴浦町にいた資産家・佐伯友文は寿号(すごう)と名付けられた馬を一見して名馬だと見抜き、軍馬補充部本部長・大藏中将を通じて希典に依頼し自身の経営する佐伯牧場で種馬としている。その後、寿号は隠岐に送られ亡くなった。寿号の面形は大山町の庄内地区に残っているという。
 大正11(1922)年、現在の北朝鮮の雄基郡に移され土地は民間に払い下げられた。

(明治40年頃の軍馬補充部大山支部の様子。どの辺りかは不明)
明治40年頃

(用地の周囲を囲んでいた土塁の一部。これが唯一の遺構らしい。『軍馬補充部大山支部用地買収錯誤の件』には「明治三十二年以来現今ニ至ル軍馬補充部大山支部土塁構内ニ在リテ支部ニ於テ耕作収益ス」とあるが、その土塁だろうか)
土塁

土塁

(土塁跡のある長野地区には長野看視舎というのがあったらしいが、もっと南(大山方面)だろう。写真の辺りはまだ支部の本部があった辺りだと思われる。ちなみに芝生やトラックは有限会社下嶋芝生のもの)
本部跡

本部跡

(道を挟んで西側の大山町富長の字・枇杷谷に本部があった。現在は芝生畑になっている。太陽光パネルや鳥取西部農業協同組合の汗入カントリーエレベーターが建っているところは字名が御林谷なので違うのだろうか)

富長

(土塁の北にある林にも入ってみたが、跡地なのか不明)
林

林

林

林

参考文献:新鳥取県史 資料編 近代6 軍事・兵事、ふるさとを探ろう、軍馬補充部大山支部用地買収錯誤の件(陸軍省)、地域のなかの軍隊5

感想:赤碕派出所にも遺構があるようですが行っていないので不明です。
 北朝鮮の雄基郡に移転した理由ですが、牛を農作業、運搬、食肉として利用する大山周辺の牛文化に馬の生育場が馴染まなかった、東日本の軍馬補充部は副業として地元の人間が作業に来ていたが大山支部の周辺は既に養蚕が副業としてあったため人が集まらなかった、などの理由があり地元との繋がりが出来なかったことが大きな要因だそうです。そのため地元では軍馬補充部大山支部があったことは知っていても具体的なことは知られていない状況です。