●軍馬補充部大山支部跡
住所:鳥取県西伯郡大山町門前(字 長野)
駐車場:なし
明治32(1899)年、兵庫県小野市から軍馬補充部青野支部を鳥取県西伯郡庄内村大字富長(大山町富長)に移し軍馬補充部大山支部と改称したのが始まり(その前に鳥取県汗入郡逢坂村(大山町逢坂)に青野支部の派出所があった)。
鳥取県東伯郡琴浦町出上にあった赤碕派出所、岡山県真庭市蒜山上長田などにあった旭川派出所と合わせると73キロ平方メートルにも及ぶ広大な面積だった。
明治38(1905)年、日露戦争で旅順を攻略した乃木希典は降将ステッセルから馬を送られた。希典の凱旋後、琴浦町にいた資産家・佐伯友文は寿号(すごう)と名付けられた馬を一見して名馬だと見抜き、軍馬補充部本部長・大藏中将を通じて希典に依頼し自身の経営する佐伯牧場で種馬としている。その後、寿号は隠岐に送られ亡くなった。寿号の面形は大山町の庄内地区に残っているという。
大正11(1922)年、現在の北朝鮮の雄基郡に移され土地は民間に払い下げられた。
(明治40年頃の軍馬補充部大山支部の様子。どの辺りかは不明)
(用地の周囲を囲んでいた土塁の一部。これが唯一の遺構らしい。『軍馬補充部大山支部用地買収錯誤の件』には「明治三十二年以来現今ニ至ル軍馬補充部大山支部土塁構内ニ在リテ支部ニ於テ耕作収益ス」とあるが、その土塁だろうか)
(土塁跡のある長野地区には長野看視舎というのがあったらしいが、もっと南(大山方面)だろう。写真の辺りはまだ支部の本部があった辺りだと思われる。ちなみに芝生やトラックは有限会社下嶋芝生のもの)
(道を挟んで西側の大山町富長の字・枇杷谷に本部があった。現在は芝生畑になっている。太陽光パネルや鳥取西部農業協同組合の汗入カントリーエレベーターが建っているところは字名が御林谷なので違うのだろうか)
参考文献:新鳥取県史 資料編 近代6 軍事・兵事、ふるさとを探ろう、軍馬補充部大山支部用地買収錯誤の件(陸軍省)、地域のなかの軍隊5
感想:赤碕派出所にも遺構があるようですが行っていないので不明です。
北朝鮮の雄基郡に移転した理由ですが、牛を農作業、運搬、食肉として利用する大山周辺の牛文化に馬の生育場が馴染まなかった、東日本の軍馬補充部は副業として地元の人間が作業に来ていたが大山支部の周辺は既に養蚕が副業としてあったため人が集まらなかった、などの理由があり地元との繋がりが出来なかったことが大きな要因だそうです。そのため地元では軍馬補充部大山支部があったことは知っていても具体的なことは知られていない状況です。