伯耆 下福田城(高城城の詰めの城ヵ)

●伯耆 下福田城
住所:鳥取県倉吉市下福田(字 小谷、定福寺)
駐車場:なし
遺構:曲輪、空堀
標高:62メートル/比高:18メートル

 城史は不明。南にある高城城の詰めの城で応仁の乱以前に築城されたと考えられている。

(下の縄張図の曲輪1の西にある空堀。1は墓地になっていたので撮影していない)
空堀

(曲輪2)
曲輪2

(曲輪の1と2の間にある土橋。前の竹藪が主郭)
土橋

(曲輪1の下にあった祠)
祠

(主郭の南と西にある空堀1と西の土塁)
空堀1

空堀1

空堀1

空堀1

空堀1

空堀1

(注意書きが落ちていた)
注意書き

(ペプシコーラの1リットル瓶も落ちていた)
ペプシコーラの1リットル瓶

(主郭)
主郭

主郭

(曲輪3とその東西)
曲輪3

曲輪3

(空堀2。写真では伝わりづらいが奥の方は深さが3メートルくらいある巨大なものだった。自分はここが一番の見所だったかな)
空堀2

空堀2

空堀2

(全景)
全景

参考文献:鳥取県の地名、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)、とっとりデジタルコレクション『高城城跡・下福田城跡』

感想:上記の通り、普段は私有地で入れないのですが地元のイベントに参加して入らせてもらいました。おぼろげな記憶ですがタケノコ泥棒の被害に遭われるらしく見つかったら本当に通報される可能性があるので勝手に入るのは絶対に止めた方がいいです。
 本文で「詰めの城」と書きましたが高城城の方が高い位置にあるため、居館か寺院(北側の主郭周辺の字が定福寺)跡に思えました。
 同じ倉吉市の市場城と雰囲気が似ていました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


第5回【尼子再興の旅】参加者募集

第5回【尼子再興の旅】を開催します!
今回は島根県を飛び出して鳥取市鹿野町を中心とした亀井茲矩に関する史跡巡りです。

【日程】
2024年6月29日(土)

【応募定員】
5名程度

【内容】
・鹿野城
・幸盛寺(山中鹿介の墓)
・亀井茲矩の墓
・譲伝寺(亀井家の菩提寺)
・加知弥神社(亀井茲矩が修復を行った)

※当日の状況により、内容は変更になる場合があります

【日程】
  9時30頃…集合(自己紹介etc)
       …鹿野城登城
  下山後…鹿野往来交流館 童里夢
      幸盛寺
  11時頃…昼休憩
  休憩後…譲伝寺など

【集合について】
  集合場所は「JR浜村駅」か「道の駅 西いなば」となります。
  各自どちらに集まるかをお伝え下さい。
  そこからは乗り合いで移動する予定です。

【用意していただくもの】
  ・名札ホルダー(ハンドルネーム可)
  ・飲み物(あった方がいいです)

【応募締切】2024年6月25日
  キャンセルの連絡は、前日28日までにお願いします。

【注意事項】
  ・当日は動きやすい服装でお越しください
  ・飲み物を準備するなどの熱中症対策もお願いします
  ・今回集まった個人情報は、このイベント以外には使用しません
  ・ルールとマナーを守って、楽しく尼子再興しましょう

詳しい内容をご確認して頂いて、応募フォームよりご応募下さい!

※このイベントはエコシエーターさんと、筑後守の共同企画です。

表

裏

(鹿野町の街並み)
鹿野町の街並み


(浜村駅と道の駅の場所)

因幡 狗尸那城(狗屍那城。古仏谷の城。鹿野城の前身?)

●因幡 狗尸那城(狗屍那城。古仏谷の城)
住所:鳥取県鳥取市鹿野町鷲峯
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:352メートル/比高:260メートル

 当地区は16世紀まで譲伝寺の前身・抱月寺があったためか古仏谷と呼ばれている。明徳2(元中8,1391)年の明徳の乱で敗れ亡くなった山名満幸の三男・三重郎幸康が家臣に連れられ鷲峯山に隠れ住み、12歳になった1402(応永9)年に築いたという。やがて幸康の後裔は陸上村(岩美町陸上)に移り住むが、狗尸那城には山名弾正(幸康の一族との関係は不明)が残り守備する。『因幡誌』には弾正が小畑高尾城主・嶋崎氏と戦って互いに消耗していたところを亀井茲矩に攻められ落城したとある。その後、茲矩が狗尸那城と名付けた。
 鳥取県埋蔵文化財センターなどの調査によると狗尸那城は茲矩が築いた現在の鹿野城の前身・鹿野古城ではないか、尼子再興戦や織田・毛利戦争において荒神山城勝山城などに対峙するための城だったのはないか、などの説がある。鹿野から三朝町の三徳山方面に抜ける道の近くにあることから重要な場所だったことは間違いない。
 近世になると古仏谷が鳥取藩の山林を管理する御山奉行が居住地となり、鷲峯村と鷲峯神社の飛び地の領地との境にあったことから藩の関係者以外は入山禁止となった。そのため『因幡誌』の編者で医者の阿陪恭庵は入れなかったため詳細な情報を得られなかったが、藩が主導した『因伯古城跡図志』には詳細な記載がある。

(山道を歩いていると出てくる曲輪群1とその先にある堀切A。場所については下の縄張図を参照)
曲輪群1

(堀切B)
堀切B

堀切B

(曲輪2。主郭だろう)
曲輪2

曲輪2

(Cの竪堀群と横堀群)
Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

Cの竪堀群と横堀群

(Dの箇所。竪堀に見えたが何なのか良く分からなかった)
Dの箇所

参考文献:鳥取県の地名、鳥取県中世城館分布調査報告書第1集(因幡編)、因幡誌 卷六 (因伯叢書) 、わたくしたちの鹿野、戦国の因幡武田と鹿野城

感想:鳥取県内では近年、一番話題になった城ではないでしょうか。
 ここで教えてもらいながら縄張図を初めて描いたのですが、それっきり描いてないです。せっかく教えてもらったので活かさないと、と思いながら数年が経っています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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