石見高城(三隅城、三隅高城。三隅氏の居城)

●石見高城(三隅城、三隅高城)
住所:島根県浜田市三隅町三隅

 当地の辺りを支配した三隅氏の居城だった。

(登山道)
登山道

(下の縄張図のⅡからⅠの曲輪群に行こうとしたが急な上に前日の雨で足元が悪かったため諦めた)
Ⅰの曲輪群

(Ⅲの曲輪)
Ⅲの曲輪

Ⅲの曲輪

(Ⅱの曲輪)
Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

(縄張図で標高の362が記載されている主郭。城址碑が建つ)
主郭

主郭

主郭

(主郭の帯曲輪と思われるⅣ)
帯曲輪

帯曲輪

(主郭の周辺から見た北西方面。三隅港と日本海、三隅氏や益田氏が港を押さえるために重視した針藻城、三隅川などが見渡させる)
北西方面

(Ⅴの曲輪群。崩れているせいなのか私の見る目がないせいか、どこにいるのか分からなくなった。竪堀と思って写した箇所もあるが大雨で崩れているだけの可能性もある)
Ⅴの曲輪群

Ⅴの曲輪群

Ⅴの曲輪群

Ⅴの曲輪群

Ⅴの曲輪群

Ⅴの曲輪群

Ⅴの曲輪群

(Ⅵの曲輪群。今は道路で分断され登山者用の休憩所が建てられている)
Ⅵの曲輪群

Ⅵの曲輪群

Ⅵの曲輪群

感想:城の歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。

(縄張図)
縄張図



石見丸山城(山の上にある石見小笠原氏の居館)

●石見丸山城(山の上にある石見小笠原氏の居館)
住所:島根県邑智郡川本町大字三原

 当地の辺りを支配した石見小笠原氏が築城した。城と言っても防御施設がほとんどないため山頂の居館と呼ばれる。

(下の縄張図の十二の曲輪)
十二の曲輪

十二の曲輪

(東から三の曲輪に進む)
三の曲輪

三の曲輪

三の曲輪

三の曲輪

(西大門跡)
西大門跡

西大門跡

西大門跡

(本丸)
本丸

本丸

本丸

(東大門跡)
東大門跡

東大門跡

東大門跡

(本丸の北東の土塁と石塁)
土塁と石塁

土塁と石塁

(西大門跡から見た三の曲輪と西の丸)
三の曲輪と西の丸

(東南門跡と西の丸)
東南門跡と西の丸

東南門跡と西の丸

東南門跡と西の丸

(八の曲輪)
八の曲輪

(九と十の曲輪)
九と十の曲輪

九と十の曲輪

(十一の曲輪と川本町の街並み)
十一の曲輪

十一の曲輪

川本町の街並み

川本町の街並み

感想:城の歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。
 2015年は北側の駐車場から、2023年は南側の駐車場から行きました。北側の駐車場は城までの距離が近いですが車道が非常に狭いため、多少登っても南側からをお勧めします。

(縄張図)
縄張図



松高山普門院(出雲の豊国神社の名残)

●松高山普門院
住所:島根県松江市北田町27
駐車場:有り
 天台宗。慶長年間中期(1600~10年)、堀尾吉晴が同市西川津町市成に豊国神社と共に願応(がんのう)寺を創建したのが始まりである。慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると豊国神社は廃社となり当寺の寺領も没収された。そのため願応寺の開基として招かれていた清水寺(安来市)の大宝坊院主・賢清が松江を去ろうとしたため、堀尾忠晴は普門院と改号し30石を寄進する。延宝4(1676)年に焼失したため現在地に移転された。

(山門)
山門

(本堂)
本堂

(松江藩の初代藩主・松平直政が霊夢により松江城内に城山稲荷神社を建て当寺を別当寺とした。その関係で境内にも稲荷神社が建っている)
稲荷神社

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。