高山右近天主教会堂跡

住所:大阪府高槻市大手町3ー46

 1574年、高山友照・右近父子が池や庭園を備えた教会堂を建立した。庭園の一角には大きな十字架も建てられていたという。1581年の復活祭には一万五千人の信者が集まったと伝わる。
 1998年に高槻市教育委員会が行なった高槻城三の丸跡の発掘調査で当地から多くの人骨と木棺が発掘され、教会のキリシタン墓地であることが分かった。

(碑)


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高槻城

住所:大阪府高槻市城内町2

 14世紀前半、入江春則が居城を構えたのが始まり。1569年、和田惟政が入江氏を滅ぼし高槻城主となったが、惟政の没後、息子・惟長が家臣の高山友照・右近父子によって追放されてしまう。
 1585年、右近が播磨明石に移封されると豊臣氏や徳川氏の直轄地となった。1615年以降、内藤氏・岡部氏など城主が何度が入れ替わった後、1649年に永井氏が城主となり明治維新を迎えている。
 1874年、京都~大阪間の鉄道建設に伴い建物は破却され石垣の一部が利用された。現在は高槻城趾公園として整備され二の丸跡には高槻市立しろあと歴史館が建っている。

(出土した石垣を利用して建てられた高槻城趾碑)

(城趾碑その2。何を表しているのか良く分かりません)

(高山右近像)

(園内)

(元工兵第四聯隊の営門。1909~1945年までここに兵舎が存在した)

感想:近くの槻の木高校に遺構があったようですが、時間がなかったため公園を廻って立ち去りました。


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野見神社(永井神社)

住所:大阪府高槻市野見町6ー6

 祭神は須佐之男命・野見宿禰命。宇多天皇の時代、病が流行り多くの死者が出た際「社殿を造り、牛頭天王を祀れば病が治まる」というお告げがあったため、牛頭天王社を建てたところ病の流行が終息した。その後、高槻城主だった入江氏や和田氏から崇敬されたが、キリシタンの高山右近が社殿を破壊して社領を没収したため、神体を山城国に避難させている。
 1615年、内藤信正が高槻に移封されると社殿を再建し社領を寄進した。1649年、永井氏が高槻城主になると明治維新まで永井氏の庇護を受けている。明治に入り野見宿禰命を合祀し社名が野見神社に改められた。

(鳥居)

(拝殿?)

(野見神社の境内に建つ永井神社の唐門。1793年、永井直信が初代藩主・直清を祭神として創建した)

(永井神社の拝殿)

(永井先公遺愛碑)

感想:毎年4月24日に永井氏所縁の方々が永井神社に参拝した後、高槻市居合道連盟による奉納演武が行われるそうです。遺愛碑の近くで居合・・・、いや何でもないです。


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