九品山三福寺(延岡藩主・内藤氏の菩提寺)

●九品山三福寺
住所:宮崎県延岡市北町2丁目1
駐車場:あり

 浄土宗。慶長19(1613)年、有馬直純が肥前の日野江(長崎県南島原市)から延岡市に移封の際、日野江から有馬山観三寺を移転しようとした。しかし観三寺の住職・信誉は末寺の三福寺を移すことを提案し直純が了承したため、延岡市大貫町に移転される。元禄5年(1692)年、現在地に移転。その頃の寺領は100石あったという。
 延享4(1747)年、延岡に移封された内藤氏も崇敬して菩提寺とした。天保8(1837)年に本堂が改築される。昭和20(1945)年の米軍の空襲も免れた。現在は火難と水難からの守護尊として信仰されている。
 寺宝に鍍銀蓮池文華鬘二面(県指定文化財)がある。

(山門)
山門

(白道寺の跡地の標柱。白道寺は有馬直純が移封された際に創建した寺だった。有馬氏が新潟県糸魚川市に移封された際、一緒に移転したため、その跡地に三福寺が入っている)
白道寺の跡地の標柱

(本堂)
本堂

(延岡城にある内藤家墓碑及び供養塔。三福寺にあったが明治42(1909)年に五ヶ瀬川の改修があったため移された)
内藤家墓碑及び供養塔

内藤家墓碑及び供養塔

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県の歴史散歩、Aizonoworks 2022年1月号

感想:駐車場の出入り口が狭く難儀しました。



日向 西階城(宝坂城。土持氏の居城)

●日向 西階城(宝坂城)
住所:宮崎県延岡市西階町(字 置露)
駐車場:西階運動公園の駐車場を利用
遺構:曲輪、竪堀、土塁、堀切、櫓台跡
標高:61メートル/比高:52メートル

 正長2(1429)年に土持全宣が築城したと伝わる。文安3(1446)年、土持宣綱が松尾城を築いて移るまでの居城だったとされるが、出土品からその後も使われており中の城と呼ばれ土持氏の一族・中城氏が城主だったという。

(場所は下の縄張図を参照。写真は東の中央、テニスコートの隣の曲輪群)
テニスコートの隣の曲輪群

テニスコートの隣の曲輪群

テニスコートの隣の曲輪群

テニスコートの隣の曲輪群

(Ⅳの曲輪群)
Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

(北西のⅢとⅥの間にある掘切。ここは威圧感があった)
掘切

掘切

掘切

(曲輪Ⅵ)
曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

(曲輪Ⅲ。登るのに若干苦労した記憶がある)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(Ⅰの曲輪群。ここが本丸らしい。ⅠとⅡの間には堀があった)
Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

Ⅰの曲輪群

(曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪ⅡとⅤの間に突き出している曲輪。ここは荒れていた)
突き出している曲輪

突き出している曲輪

突き出している曲輪

(曲輪Ⅴ)
曲輪Ⅴ

(南西の曲輪群。先端には展望台があり大瀬川を見ることができた)
南西の曲輪群

南西の曲輪群

南西の曲輪群

南西の曲輪群

(金堂ヶ池)
金堂ヶ池

(池に突き出している中央の曲輪群。この辺りで歩くのが面倒になってきたが、せっかく来たので行ってみた)
中央の曲輪群

中央の曲輪群

中央の曲輪群

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、延岡市役所

感想:一周するだけならウォーキングにちょうどいい距離なので地元の方がたくさん歩いていました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


日向 延岡城(縣城・亀井城)

●日向 延岡城(縣城・亀井城)
住所:宮崎県延岡市東本小路
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、門跡、井戸跡
標高:50メートル/比高:41メートル

 北の五ケ瀬川と南の大瀬川に挟まれ、東で両川が合流し東海湊(延岡港)に出る位置にある。天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州国分で縣(延岡)を与えられ松尾城に入った高橋元種だったが、城下町の形成と鉄砲による近代戦を意識して慶長8(1603)年に縣城を築城した。
 慶長19(1613)年、元種に替わって有馬直純が城主となり現在の延岡市街地の基礎を築き城郭を整備する。有馬氏時代に縣から延岡に改称したという(異説あり)。その後は三浦氏、牧野氏、内藤氏と徳川家譜代の大名が城主となり、明治維新を迎えた。明治6(1873)年に一部を除いて建物が取り壊され現在は城山公園として整備されている。

(下の縄張図の中央にあるのが城山と呼ばれる本城(この呼び方で良いのか不明)で西にあるのが西の丸。写真は本城の北東、駐車場の目の前にある曲輪)
駐車場の目の前にある曲輪

駐車場の目の前にある曲輪

駐車場の目の前にある曲輪

(中央にある井戸跡)
井戸跡

井戸跡

(同じく中央にある始めカギ括弧(「)字形に曲がっている千人殺しの石垣。石垣の一部を外すと崩れ落ちて千人を殺せるのが由来だという)
千人殺しの石垣

千人殺しの石垣

(中央の階段に建つ北大手門)
北大手門

北大手門

(西の広い曲輪。二の丸になる。管理事務所もある。井戸跡もあった)
二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

(二の丸の南西にある二階櫓跡)
二階櫓跡

二階櫓跡

(南の中央にある本丸。石段のところには二階門があった)
本丸

本丸

本丸

(本丸に建つ内藤政擧の像。政擧は延岡藩の最後の藩主で明治維新後は地元経済の発展に努めた)
内藤政擧の像

(南東にある天守台。だが発掘調査では天守台の跡を示すものは発見されていない)
天守台

天守台

天守台

(鐘撞き堂。太鼓櫓があったが明治10(1877)年の西南戦争で焼失した。翌年に鐘撞き堂が建てられ時を知らせている。そのため勝手に鐘を突くのは禁止で、鐘を突いている時の撮影も許可が必要)
鐘撞き堂

(天守台から延岡港方面を望む。目の前の川は大瀬川だと思う)
延岡港方面

(天守台の北東にある三階櫓跡)
三階櫓跡

(三の丸から本丸に続くつづら折れの吹上坂)
つづら折れの吹上坂

つづら折れの吹上坂

(北東の突き出した箇所にある三の丸と石御門跡)
三の丸と石御門跡

三の丸と石御門跡

三の丸と石御門跡

(駐車場から頑張って全景を撮ってみた)
駐車場

(車で西の丸に移動。延岡城・内藤記念博物館が建っている。中で延岡の歴史を学んだ。ここから延岡城の本城がよく見える)
西の丸

西の丸

西の丸

西の丸

西の丸

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、現地の案内板

感想:変なところから登って見て廻ったため写真の順番がおかしいですが気にしないでください。皆さんは北大手門から回った方が分かりやすいと思います。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について