日向 松尾城(縣松尾城、土持城、土持要害。縣土持氏の居城)

●日向 松尾城(縣松尾城、土持城、土持要害)
住所:宮崎県延岡市松山町松山
駐車場:あるが利用しない方がよい(後述)
遺構:曲輪、土塁、竪堀、虎口、掘切
標高:51メートル/比高:42メートル

 五ケ瀬川の北岸、高平山の南麓に位置する。中世後半から近世初期に延岡地方(縣、県)の中心だった。文安3(1448)年、井上城から西階城に拠点を移していた縣土持氏の宣綱が築城して松尾城に拠点を移したという。
 長禄元(1457)年、財部土持氏の影綱が伊東祐尭に敗れた後は、七系統あった土持氏は縣土持氏だけになっている。それから宣綱から五代続いたが、天正6(1578)年に島津氏から日向を追われた伊東義祐の旧領を回復するため大友宗麟が侵攻してくると、松尾城主・土持親成は島津義久に従っていたため大友軍の攻撃を受け落城させられた。同年に島津義久が高城・耳川の戦いで大友軍を撃退すると、義久は土持親成の息子・高信(久綱)を松尾城に入っている。
 天正15(1587)年の九州攻めで島津氏が去ると豊前の香春岳城主・高橋元種が城主となる。慶長8(1603)年、元種は縣城(延岡城)を築城し延岡地方の拠点を移した。近世には代官所が置かれていたようである。

(西側の入口)
西側の入口

(曲輪5に出た。駐車場になっており詳しい説明と縄張図のある文化財看板も立つ。そのまま曲輪6にも行った。場所は下にある縄張図を参照)
曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

(曲輪4)
曲輪4

曲輪4

(主郭と思われる曲輪1。忠魂碑、土持氏記念碑などが建っていた。土持氏記念碑の裏を読んだら日露戦争で亡くなった旧松山村の方々の慰霊の碑文が刻んであった)
曲輪1

曲輪1

曲輪1

曲輪1

(曲輪1と4が合流したところにある虎口)
虎口

(曲輪2)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

(曲輪9)
曲輪9

(曲輪2と3の間にある掘切)
掘切

掘切

(曲輪10)
曲輪10

曲輪10

(曲輪3)
曲輪3

曲輪3

曲輪3

(曲輪11,12,13の辺り)
曲輪11,12,13の辺り

曲輪11,12,13の辺り

曲輪11,12,13の辺り

(曲輪15。16より先は藪になっていたので行っていない)
曲輪15

曲輪15

(南東方面から山側の全体を見る)
山側の全体

(永田神社。天平勝宝2(750)年に勧請された。善神王社と称していたが明治4(1871)年に永田神社となる。ここも城域で本東寺との間にある住民道路が掘切だったらしい)
永田神社

永田神社

永田神社

参考文献:宮崎県の地名、宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書Ⅱ、九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編、延岡市公式サイト宮崎県神道青年会、宮崎県神社誌

感想:本東寺から回ってくれば主郭近くの駐車場(曲輪5の農村公園)まで行けますが軽自動車でも行くのが大変なくらい狭いので、どこかに車を駐めて西側の入口か東側の本東寺付近から登った方がいいです。
 南東から全景を撮っている時、地元の方に「なんば撮りよっとね」と聞かれ話をした記憶があります。
 本東寺の辺りも城だったのですが、そちらは別に載せます。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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