奈半利八幡宮(北川玄蕃頭息女乳母之墓)

●奈半利八幡宮
住所:高知県安芸郡奈半利町乙316-4(字宮ノ岡)

 創建年代は不明だが鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したという。慶長年間(1596~1615年)に焼失したが再建された。宝永4(1707)年、10代の青年二人が境内で小鳥を鉄砲で打って遊んでいると鉄砲の火で社殿が焼けたが、まだ若いということで特別に罪を免れている。
 天正2(1574)年、長宗我部元親が安芸郡に侵攻して来たため、烏ヶ森城主の北川玄蕃は抵抗したが敗北。玄蕃の3歳の娘は乳母に連れられて当社の前で休んでいたところ、長宗我部兵に追いつかれ乳母は娘を刺し殺した後に自害した。

(鳥居)
鳥居

(石段)
石段

(社殿)
社殿

(鳥居の東側にある北川玄蕃頭息女乳母之墓。手前から2番目の墓標(供養塔?)には「北川玄蕃息女之墓、車瀬助市建之」と刻んである。奥の2基が息女と乳母の墓のようだ)
北川玄蕃頭息女乳母之墓

参考文献:長宗我部元親 50年のフィールドノート、奈半利町史考

感想:ネットで検索すると情報があまり載っておらず参拝する方は希のようです。



土佐有岡城(有岡民部少輔の城)

●土佐有岡城
住所:高知県四万十市有岡
駐車場:?
遺構:曲輪、堀切、竪堀
標高:100メートル/比高:80メートル

 西に横瀬川と山田川、南に四万十川に通じる中筋川が流れている物流の拠点にあった。築城年代は不明だが鎌倉時代に当地の領主だった有岡民部少輔が築いたと伝わる。現在の縄張を見る限り、戦国時代になっても土佐一条氏や長宗我部氏によって利用されたようである。

(登って城域に着いたところ。虎口かと思ったが道が分からず直登して北の曲輪に出たので違うだろう)
虎口

(北にある堀切)
北にある堀切

(主郭の北側にある曲輪。土塁もしっかりとある)
主郭の北側にある曲輪

(主郭と北側の曲輪の間にある堀切)
堀切

(主郭)
主郭

主郭

主郭

(主郭にある有岡村の守護を祈願するため大正時代に建てられた祠)
祠

(主郭にある有岡民部少輔の供養碑?)
有岡民部少輔

(主郭と南の曲輪の間にある堀切)
南の曲輪

(南の曲輪)
南の曲輪

(南の曲輪から見た四万十看護学校)
四万十看護学校

感想:入口が分かりづらく探し回ったので、これから行かれる方は下記の地図を参考にしてください。これが正しい入口だったのか責任は持てませんが。



添ノ川城(依岡左京の居城)

●添ノ川城(そいのかわじょう)
住所:高知県幡多郡大月町添ノ川
駐車場:入口付近に駐車スペースあり
遺構:曲輪、堀切、竪堀、土橋
標高:90メートル/比高:50メートル

 東から北を通って西にかけて福良川の支流が流れている。宿毛市から大月町月灘にかけての要衝にあり現在でも主要道路である国道321号の近くに位置する。築城年代は不明だが土佐一条氏の家臣でのちに長宗我部元親に仕えた依岡左京(右京、弥次郎)の居城だったと伝わる。

(登ると最初に出てくる堀切)
堀切

(南の曲輪群)
南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

(後世に積まれたと思われる石垣)
石垣

(北に進むと再び曲輪と堀切がある)
曲輪と堀切

曲輪と堀切

(そしてもう一度堀切を越えると広い曲輪に出る)
広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

(北東の曲輪の入口にある土橋)
土橋

(土橋の左右には堀がある)
土橋

(北東の曲輪。ここが主郭らしい。主郭にも竪堀などの遺構があったようだが藪がひどくて行かなかった)
北東の曲輪

北東の曲輪

感想:遺構の状態も良く城までの道もあるので気軽に見学できます。現地まで行くのが大変ですが・・・。