土佐戸波城(伊乃保幾城、井場城、戸波親武の居城)

●土佐戸波城(伊乃保幾城(いのほきじょう)、井場城)
住所:高知県土佐市戸波
駐車場:城址碑に立つ場所に駐車可?
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀
標高:104メートル/比高:95メートル

 戦国時代は北以外は崖となっており、北には惠良沼という湿地帯があり南に波介川が流れていた。築城年代は不明。当初は津野氏の城だったが土佐一条氏が奪い家臣の福井玄蕃を入れたという。永正14(1517)年、戸波城奪回のため津野元実が攻めたが、土佐一条氏の援軍により元実は戦死し兵も惠良沼で溺死するなどして大敗した(惠良沼の戦い)。
 その後、長尾正直が城主となったが長宗我部元親が元亀元(1570)年に落とし、従兄弟の長宗我部親武を入れ戸波姓を名乗らせている。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、長宗我部家が改易されると廃城になった。

(登っている最中、竪堀と思って撮ったが近代になって自然にできたようにも見える)
竪堀?

(その後、曲輪群に見えるような場所に出たが、狭すぎるので果樹園の跡ではないか)
果樹園

果樹園

果樹園

(城域の東側の堀切。やっと本当の遺構らしき場所に着いた)
堀切

(東端の曲輪群)
東端の曲輪群

東端の曲輪群

東端の曲輪群

東端の曲輪群

東端の曲輪群

東端の曲輪群

(少し西に戻って中心の曲輪群(⊥型)の東に行く。まずは竪堀)
竪堀

竪堀

竪堀

(中心の曲輪群(⊥型)の東の曲輪)
東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

(中心の曲輪群(⊥型)の中央部。ここから更に北側に行こうとしたが竹藪になっており進めないので諦めた)
中央部

中央部

中央部

中央部

(中心の曲輪群(⊥型)の西の曲輪)
西の曲輪

西の曲輪

西の曲輪

西の曲輪

(上記の更に西にある細長い曲輪)
細長い曲輪

細長い曲輪

細長い曲輪

細長い曲輪

(中心の曲輪群から更に西に進むと、堀切で区切られた先に曲輪があった)
堀切

堀切

曲輪

曲輪

曲輪

曲輪

(上記と西端の曲輪の間にある尾根と連続堀切)
尾根

尾根

尾根

連続堀切

連続堀切

連続堀切

連続堀切

石塁

連続堀切

連続堀切

連続堀切

(西端の曲輪)
西端の曲輪

西端の曲輪

西端の曲輪

西端の曲輪

(西端の曲輪の周辺に畦状竪堀群があるらしいが分からなかった)
畦状竪堀群

(城の南側の県道に立つ城址碑。城は左側の山)
城址碑

(全景)
全景

参考文献:土佐の山城、高知県の地名、土佐市史、日本城郭大系

感想:東西に長く曲輪が続く城でした。現在の遺構だと西の守りがもっとも堅く、そちらからの攻撃に重点を置いていたように思えました。





土佐松尾城(佐川氏の城)

●土佐松尾城
住所:高知県高岡郡佐川町甲
駐車場:駐車スペースあり
遺構:曲輪、畦状竪堀群、連続堀切
標高:199メートル/比高:85メートル

 南北朝時代に南朝方の佐川四郎左衛門が居城していたが、興国元(暦応3、1340)年と翌年に北朝方の津野氏、三宮氏らとの戦いに敗れ城から脱出した(松尾城は支城で戦いは本城の佐川城であったともいわれる)。その後、津野氏の縁者で佐川氏と同族の中村氏(佐川越中守)が城主となる。
 永禄12(1569)年9月、長宗我部元親が高岡郡に侵攻してくると近郷の三宮氏、片岡氏、黒岩氏、近沢氏、米森氏らが松尾城に集まって対応を話し合い、米森氏以外は降伏を決め元親に人質を差し出した。そして松尾城主・佐川信義は久万田(佐川町甲字久万田)に隠居し元親の重臣・久武親直が信義の養子となって城主になったという(親直は佐川城主で松尾城には信義の長男・彦一郎が城主になったとも)。

(登ると10分くらいで到着する南の出丸)
南の出丸

南の出丸

南の出丸

南の出丸

南の出丸

(出丸の中で一段高い物見台のような曲輪)
物見台

物見台

(中心にある主郭の南の曲輪群の周辺には畦状竪堀群がある)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(南の曲輪群。群と言っても2つだが)
南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

南の曲輪群

(南の曲輪群の西にある曲輪。物見岩と呼ばれる大きな岩があった)
西にある曲輪

西にある曲輪

物見岩

物見岩

(主郭)
主郭

主郭

主郭

主郭

(主郭の東にある連続堀切。13本もある)
連続堀切

連続堀切

連続堀切

連続堀切

連続堀切

(上記の堀切の先にある曲輪)
曲輪

曲輪

(戻って今度は主郭の北西にある曲輪群と堀切(から派生する竪堀))
北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

北西にある曲輪群と堀切

(主郭の北の曲輪群と堀切)
北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

北の曲輪群と堀切

(上記の曲輪の北端まで行き西に行くと、ここにも物見岩と呼ばれる巨大な岩がある)
物見岩

参考文献:土佐の山城、土佐名家系譜、佐川郷史

感想:規模が大きくて途中でヘトヘトになりました。特に連続堀切の上り下りは足にきました。
 地元の方の情報によると2023年3月まで登山口が崖崩れ対策の工事のため城には登れない状態だそうです。


土佐窪川城(仁井田五人衆の一人・窪川氏の居城)

●土佐窪川城(茂串城、繋石山城)
住所:高知県高岡郡四万十町西原、金上野
駐車場:?
遺構:曲輪、堀切、畦状竪堀群、土塁、虎口
標高:371メートル/比高:163メートル

 茂串山の山頂に築かれており茂串城や繋石山城とも呼ばれる。西に流れる四万十川の水運を押さえるために築かれたと思われる。明応9(1500)年、相模国鎌倉の山内から山内備後守宣澄が来て窪川氏を名乗り拠点としたという。四万十川上流の高南台地を中心とした地域は仁井田郷(仁井田庄)と呼ばれ、当地を治めた有力な五つの家を仁井田五人衆と呼び窪川氏もその一つだった。窪川氏は津野氏、土佐一条氏、長宗我部元親に仕えたが朝鮮出兵で戦死し断絶している。その後、元親の家臣・八木正久を城番としたが、関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易されると廃城となり、山内氏の重臣・林氏(山内氏)は麓に土居を構えた。

(登山口近くに建つ三熊野神社)
三熊野神社

三熊野神社

三熊野神社

(登山口付近に建つ林氏(山内氏)の墓所。初代の林勝吉は織田信長の重臣・林通勝の三男で山内一豊に仕えて家老となっている)
林氏(山内氏)の墓所

(北東の曲輪に到着)
北東の曲輪

北東の曲輪

北東の曲輪

(上記の曲輪の先にある二重の堀切)
二重の堀切

二重の堀切

(北東と主郭を結ぶ細長い曲輪)
細長い曲輪

細長い曲輪

(細長い曲輪と主郭の間にあった堀切)
堀切

(主郭の虎口)
虎口

(主郭。周りが土塁で囲われている)
主郭

主郭

主郭

主郭

(主郭の西にある曲輪)
西にある曲輪

西にある曲輪

西にある曲輪

(西から南にかけて畦状竪堀群がある)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(南の曲輪)
南の曲輪

(北の曲輪群)
北の曲輪群

北の曲輪群

北の曲輪群

北の曲輪群

北の曲輪群

感想:登山口が荒れており道を見つけるのに難儀しました。山に取り付くと林になっているため雑草があまりなく城域が分かっていれば苦労はありません。