土佐片岡城(片岡氏の城)

●土佐片岡城
住所:高知県高岡郡越知町片岡
駐車場:なし
遺構:曲輪、竪堀、堀切、土塁
標高:165メートル/比高:103メートル

 南に仁淀川、西に谷の内川が流れており城の東西は急峻な崖で北は標高の高い連山がある天然の要害だった。築城年代、築城者は不明だが当地を支配した片岡氏の城である。東にある法厳城が本城で片岡城は支城だったという(法厳城を片岡城と呼んでいたという説あり)。
 片岡氏の出自は諸説あり定かではないが遅くとも応仁の乱の頃には土佐に入国し勢力を広げた。長宗我部氏が西に侵攻してくると家臣となって、四国攻めでの伊予の戦い(天正の陣)や豊後の戸次川の戦いで奮戦している。

(神社の参道があるので登りやすい)
参道

(すぐに南端の曲輪に辿り着く)
南端の曲輪

(南側の竪堀。当時は参道がなかったため、南から攻めて来た敵に対して効果的だったのだろう)
南側の竪堀

南側の竪堀

南側の竪堀

南側の竪堀

南側の竪堀

(南端の曲輪のすぐ北にある曲輪)
北にある曲輪

北にある曲輪

(上記の北にある曲輪。要するに三段になっており、その西の斜面に上記の竪堀がある)
北にある曲輪

(三段の曲輪を利用して造られた参道を登り切ると鳥居や社殿のある逆L字型の主郭に辿り着く)
主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

(主郭にある片岡氏発祥五百年祭記念碑。建てられたのが昭和10(1935)年に見えるが鮮明でないため自信がない)
片岡氏発祥五百年祭記念碑

(主郭の西端の曲輪。中央に堀切があり、三方が崖になっており堅固だったのが分かる。見学するには危険が伴うので注意が必要)
西端の曲輪

西端の曲輪

西端の曲輪

(主郭の北にあり一番高い位置にある曲輪。さほど広さはなく『土佐の山城』には宗教的な儀式で利用された可能性があるとの記載があった)
高い位置にある曲輪

高い位置にある曲輪

(上記の後ろ(更に北)にある巨大な二重の堀切。北に続く連山と城域を切断するためだろう。個人的には一番の見所だった)
二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

(堀切から見た一番高い位置にある曲輪。この切岸を登るのは無理)
切岸

参考文献:高知県の地名、土佐の山城、日本城郭大系、越知町史

感想:社殿までは簡単に登れますがそこから先の堀切などは道が整備されていないので、それなりの装備で行った方がいいです。



土佐米ノ川城(土佐南部氏の居城)

●土佐米ノ川城
住所:高知県高岡郡四万十町米奥
駐車場:あり
遺構:曲輪
標高:279メートル/比高:45メートル

 北から東にかけて四万十川が流れている。土佐南部氏の居城で築城年代、築城者は不明だが、応安3(建徳元,1370)年に陸奥にいた南部周防守高忠が当地に来て開発したという。南部氏は大野見氏に仕えるが裏切って津野氏と共に大野見氏を攻撃して与津浦に追いやり、以降は津野氏に仕える。津野氏が長宗我部元親の配下となった後も引き続き津野氏に仕え、最後の当主・太郎左衛門長宗我部盛親の改易後に山内氏に仕えていたが、大坂の陣では盛親の元に駆け付け戦死している。

(登って行くと如意観音堂。大乗寺が建っていたが明治4(1571)年に廃寺となった。ここも曲輪跡か?)
如意観音堂

(西に進むと曲輪らしき場所がある)
曲輪

曲輪

(更に西に進むと工事車両用の道に出た。ここも曲輪などの遺構があったと思われる)
工事

工事

工事

(工事の道を進むと出てくる主郭。西側から登るのが難しかったため南から廻って登ったが、南側の道(?)が藪になっており主郭の反対側が崖になっているため行かない方がよい)
主郭

主郭

(左奥の小丘が米ノ川城)
米ノ川城

(城の東の四万十川に架かる一斗俵沈下橋)
一斗俵沈下橋

一斗俵沈下橋

四万十町地名辞典さんによると、城と四万十川の間の山崎建築工業さんの建つ小字シロハナ(城鼻)の辺りも城域だったが、昭和初期に米奥小学校第二運動場造成で消滅したらしい)
山崎建築工業

参考文献:高知県の地名、仁井田五人衆

感想:土佐南部氏が来た陸奥南部という地名が分かりませんでしたが、上記の四万十町地名辞典には陸奥の二戸から来たとありました。城郭放浪記さんには畝状竪堀群が載っていましたが分かりませんでした。



土佐本在家城(仁井田五人衆の一人・東氏の居城)

●土佐本在家城
住所:高知県高岡郡四万十町七里
駐車場:なし
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切、土塁
標高:330メートル/比高:106メートル

 東谷山の山頂にあり野口城とも呼ばれる。城主は東氏と伝わり影山城主西氏と同族で、七里地区の東の本在家村に城を構えたので東氏、西の影山村に城を構えたので西氏と呼ばれたと思われる。四万十川上流の高南台地を中心とした地域は仁井田郷(仁井田庄)と呼ばれ、当地を治めた有力な五つの家を仁井田五人衆と呼び東氏もその一つだった。東氏は津野氏、土佐一条氏、長宗我部元親に仕えたが、当主が朝鮮出兵で戦死や元親への謀叛で討たれるなど悲劇が続き断絶している。

(南から登って行くと南端の曲輪に出る)
南端の曲輪

(その北には二重の堀切)
二重の堀切

二重の堀切

二重の堀切

(更に北にある高知県ではお馴染みの畦状竪堀群。写真は中心の城域の南のもの)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(上記の中心の城域の南と西の畦状竪堀群の間にある堀切)
間にある堀切

(中心の城域の西の畦状竪堀群)
西の畦状竪堀群

西の畦状竪堀群

西の畦状竪堀群

(中心の城域の一番南の曲輪)
南の曲輪

南の曲輪

(上記の北にある曲輪。二の段らしい)
二の段

(二の段の北にある曲輪)
二の段の北にある曲輪

(上記と主郭の間にある堀切。写真では伝わらないが、かなりの大きさだった)
主郭の間にある堀切

主郭の間にある堀切

主郭の間にある堀切

(主郭。土塁があった)
主郭

主郭

主郭

(北端の曲輪)
北端の曲輪

北端の曲輪

(北東の堀切と曲輪)
北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

北東の堀切と曲輪

(北西の曲輪。こちらは遺構がよく分からなかった)
北西の曲輪

参考文献:高知県の地名、窪川町史、土佐の山城

感想:車を駐める場所がなくて難儀しました。