吉祥山無量寿院 乗台寺(長宗我部氏の重臣・久武親信の墓)

●吉祥山無量寿院 乗台寺
住所:高知県高岡郡佐川町甲1746
駐車場:あり

 真言宗。本尊は不動明王。正平19(貞治3、1364)年に創建される。当地を支配した三野氏、中村氏、久武氏の菩提寺として隆盛した。だが近世になると寺領を削られ常通寺の支配下となる。
 土佐の三大名園の一つで県指定名勝の「ひさご園」は、土佐藩の重臣・深尾重忠の妻が病気の際、平癒祈願を行ったところ効果があり全快の礼として築かれたという。上記の通り、深尾氏と関係が深く祈願寺になっていた。7つの末寺があったがいずれも明治4(1871)年に廃寺となり、当寺に合併されている。

(山門)
山門

(本堂)
本堂

(文殊堂)
文殊堂

(鐘楼)
鐘楼

(大師堂)
大師堂

(観音堂)
観音堂

(弁財天)
弁財天

(天満宮)
天満宮

(ひびせき地蔵尊)
ひびせき地蔵尊

(三野氏三代の墓)
三野氏三代の墓

(久武氏墓所)
久武氏墓所

久武親信の墓。昭和58(1983)年に建てられた碑には親直になっていたが、最近建った碑は親信になっていた。親直は関ヶ原の戦い後、新しい主君を求めて肥後に移っており土佐で亡くなっていない)
久武親信の墓

感想:参拝した時はお忙しそうだったので「ひさご園」は見学していません。



土佐室津城(室津氏の居城)

●土佐室津城
住所:高知県室戸市室津(字 土居ノ内)
駐車場:室津八幡宮に駐車可能
遺構:曲輪、堀切、竪堀
標高:90メートル/比高:72メートル

 築城年代は不明だが地元の豪族・室津氏(惟宗氏、室津別府氏)が地頭となって築城したという。室津氏は現在の室戸市内や安芸郡の東洋町・安田町に勢力を伸ばしていた。麓の室津八幡宮の永正15(1518)年の棟札に惟宗兵衛尉長氏の名があり、永禄6(1563)年に同社の棟札で息子の政長の名がある。
 長宗我部元親が安芸郡に侵攻してくると政長は安芸国虎らと共に抵抗。だが天正2(1574)年に敗れ人質を出して降伏した。以降、長宗我部軍に従って転戦している。

(登山道を進むと南東の浅い堀切Ⅰに辿り着いた。場所については下の概略図を参照)
浅い堀切Ⅰ

(Aの尾根)
Aの尾根

(曲輪(尾根?)Bと、Aとの間にある堀切)
曲輪

曲輪

堀切

(東西にあるⅡの竪堀)
Ⅱの竪堀

(曲輪C。西側に細長く伸びている)
曲輪C

(曲輪D)
曲輪D

曲輪D

曲輪D

(堀切Ⅲ)
堀切Ⅲ

堀切Ⅲ

(曲輪E。東西に段差があるが用途が不明。『土佐の山城』だと見張り用の曲輪ではないかと推測しているため、一段上がったところに櫓でもあったのかもしれない)
曲輪E

曲輪E

(曲輪Eの南西にある土橋?)
土橋

(堀切群Ⅳ。南から来た敵を北の主郭に進ませないためか城域の中でもっとも深く幅も広かった)
堀切群Ⅳ

堀切群Ⅳ

堀切群Ⅳ

堀切群Ⅳ

堀切群Ⅳ

堀切群Ⅳ

(曲輪F)
曲輪F

曲輪F

(曲輪G。主郭)
曲輪G

曲輪G

曲輪G

(堀切群Ⅴ)
堀切群Ⅴ

堀切群Ⅴ

堀切群Ⅴ

堀切群Ⅴ

(堀切群Ⅴの先の尾根)
尾根

(その後、北側から回り込んでHに向かおうとしたが迷ってしまった。写真は北側から曲輪Gに行くため、後世に作られた道。北側の登り口は不明だが室津神社の辺りにあるのだろうか)
後世に作られた道

(曲輪H。この先に堀切などがあったらしいのだが、荒れていたのと迷って疲れていたため引き返した)
曲輪H

曲輪H

曲輪H

参考文献:高知県の地名、土佐の山城、室戸市史 上巻

感想:2019年に行った際は入口が分からず東の室津神社から尾根に登って撮影しましたが残念ながら隣の山でした。今考えれば堀切など遺構がなかったので間違いだったのは分かるのですが、当時は知識がなく無駄に尾根だけを撮影していました。
 城域へは行きは民家の道から入り帰りは室津八幡宮の鳥居辺りに出ましたが、民家の道から行った方が道が整備されており楽です。

(概略図)
概略図



土佐烏ヶ森城(北川城。北川玄蕃の居城)

●土佐烏ヶ森城(北川城)
住所:高知県安芸郡北川村柏木(字 城山)
駐車場:駐車スペースあり
遺構:曲輪、堀切、土塁、竪堀
標高:263メートル/比高:230メートル

 城の北と西には奈半利川が南には野川川が流れ天然の濠となっており、東側は急斜面になっている。
 築城年代は不明。建久元(1190)年には当地を支配していた北川氏の居城で、戦国時代には土佐一条氏に従い北川村だけではなく奈半利町まで勢力を広げていたという。戦国時代末期には北川玄蕃頭道清が城主となった。
 永稼12(1569)年7月、長宗我部元親が安芸郡に侵攻してくると玄蕃頭は安芸国虎に味方し息子・右衛門太夫を援軍として送ったが、国虎の居城・安芸城は落城し右衛門太夫は戦死している。同年秋、元親は更に東へと進軍し烏ヶ森城に迫った。元親の離間策に嵌まった玄蕃頭は味方の浜宇津十郎左衛門を騙し討ちにしてしまい力を削がれ、しかも城内に内通者が出て城への道を誘導したため玄蕃頭は城を捨てて打って出る。しかし元親の家臣・福留権左衛門に討たれた。

(南の野川川沿いにある烏ヶ森城の入口。自分はここから登るのが面倒で上まで車で行った)
入口

(城の近くの駐車スペースに駐めて西に歩くと、やがて城域の南の堀切群Ⅰに出る。詳しくは下の概略図を参照)
堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

(主郭であるAの曲輪。竪堀や土塁があったらしいのだが、雑草が多く分からなかった)
主郭

主郭

主郭

(主郭の中央にある展望台。100円を入れると見られる望遠鏡があったが今でも機能しているのか不明。ここから奈半利川や太平洋が一望できる。落城時には長宗我部軍も見えたはず)
展望台

展望台

展望台

(Bの曲輪)
Bの曲輪

(堀切群Ⅱとなだらかな斜面)
Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

(最北端にあるCの曲輪)
Cの曲輪

参考文献:高知県の地名、土佐の山城、北川村史 通史編、北川物語

感想:城自体は昔に整備されており、雑草は多いものの見学しやすいです。車なら駐車スペースも近いですし気軽に行ける城です。ただし駐車スペースまでの車道は狭く、車の運転に自信のない方は下から頑張って登ってください。

(概略図)
概略図