土佐 浦戸城(長宗我部氏最後の居城)

●土佐 浦戸城
住所:高知県高知市浦戸
駐車場:桂浜公園の駐車場を利用
遺構:曲輪、石垣、井戸跡、掘切
標高:49メートル/比高:44メートル

 市指定史跡。築城年代は不明だが、建武3年(1336)に北朝方の津野氏が南朝方の浦戸を攻めており、これは浦戸城と浦戸湊の制圧が目的としていたと推測されている。
 天文年間(1532~55)、土佐の北部から進出してきた本山氏が高知平野支配の拠点として朝倉城を築くと、その支城として浦戸城が築かれた。しかし、永禄3年(1560)の長浜の戦いで長宗我部国親に浦戸城を奪われた。
 国親の跡を継いだ元親は、天正13年(1585)に豊臣秀吉に敗れたものの、土佐一国の領有を認められた。そして居城を岡豊城から大高坂城(高知城)に移そうとしていたが、小田原攻めや朝鮮出兵などで豊臣政権から長宗我部水軍への出陣命令があり、さらに他国も含めた造船命令もあったため、天正19年(1591)に水運の便が良い浦戸城へ一時的に移る。
 戦乱が収まった後、大高坂城に居城を戻そうとしていた長宗我部氏だったが、慶長4年(1599)年に元親が死去。跡を継いだ盛親も関ヶ原の戦いで西軍に属したため、改易されてしまう。
 新たに土佐一国を与えられた山内一豊が浦戸城に入ろうとしたが、長宗我部家の下級武士が城に籠もり、自らの権益確保を要求。しかし、長宗我部家の家老など上級武士が下級武士を騙し討ちにし、城を奪い返した。その後、一豊は浦戸城へ入城したものの、城下町の形成には適さなかったため、慶長6年(1601)から大高坂城への築城を開始し、浦戸城の利用できる資材を壊して運んでいる。
 現在、浦戸城跡地には坂本龍馬記念館や国民宿舎「桂浜荘」などが建設され、開発が進んだ結果、大部分が破壊されている。

(国民宿舎「桂浜荘」の南にある保存された石垣)
石垣

石垣

(国民宿舎「桂浜荘」の北にある天守台跡。跡には城八幡宮と大山祇神社の祠が建つ)
天守台跡

天守台跡

天守台跡

天守台跡

(井戸跡)
井戸跡

(西にある掘切)
掘切

掘切

(曲輪)
西にある掘切

(西にある二の段)
二の段

(三の段、だったかな)
三の段

(北の道路に建つ城趾碑)
城趾碑

(本丸だった場所に建つ坂本龍馬記念館)
坂本龍馬記念館

(城址から見た太平洋。この地形を見ると長宗我部も山内も城下町の形成に向いていないと思っていたのが分かる)
太平洋

参考文献:高知県の地名、土佐の山城、高知市 民権・文化財課高知市 観光情報サイト

感想:この時は風邪(インフルエンザ?)で体調が悪くなり、全ての予定をキャンセルして高知市のホテルの近場をフラフラしていました。

(概略図)
地図



室戸山 明星院 最御崎寺(四国八十八カ所霊場二十四番札所)

●室戸山 明星院 最御崎寺(ほつみさきじ)
住所:高知県室戸市室戸岬町4058-1(字 大坊ヤシキ、坂本)
駐車場:あり

 真言宗。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八カ所霊場二十四番札所。行当岬の金剛頂寺を「西寺」と呼ぶのに対し、最御崎寺は「東寺」と呼ばれる。
 大同2年(807)、唐から帰国した空海が当地を訪れ創建し、虚空蔵菩薩を安置したのが始まりと伝わる。かつては7キロ北の四十寺山にあったが、寛徳元年(1044)に現在地へ移転されたという説もある。
 室津庄(室津川の上流と中流の区域)や潮江庄(高知市潮江)に荘園を持っていたが、鎌倉時代になると潮江庄は守護代などに押領された。室町時代に土佐の安国寺となり、足利将軍の祈願所となる。南北朝時代以降、室津氏が室津庄を押領し、長宗我部元親が侵攻して室津氏を傘下に収めても、その状況は変わらなかった。
 近世に入ると寺領が145石になり、土佐藩主の山内家が海上や野根山峠を通行する際には守札を献上している。明治維新後の廃仏毀釈で荒廃したが、大正年間(1912~26)に再建された。
 建仁2年(1202)を始めとして何度も火災に遭い、多くの古文書や仏像などが消失してしている。寺宝に国指定重要文化財の薬師如来坐像、月光菩薩立像、如意輪観音半跏像などがある。

(お迎え大師)
お迎え大師

(仁王門)
仁王門

仁王門

(参道)
鐘石

鐘石

(鐘石。叩くと鐘のような音が出て、冥土まで響くという)
鐘石

(大師堂)
大師堂

(鐘楼堂)
鐘楼堂

(多宝塔)
多宝塔

(本堂)
本堂

(鐘つき堂)
鐘つき堂

(大坂の陣で活躍した薄田隼人正兼相(岩見重太郎)の塚。戦後になって安霊所から兼相の遺髪が見つかり、当時の住職が建てて弔ったという。どういう形で見つかったのか、なぜ遺髪があったのか不明だが、遺族か豊臣方の武将が納めたのだろう)
薄田隼人正兼相(岩見重太郎)

参考文献:高知県の地名、四国遍路 : 八十八カ所霊場めぐり、四国八十八ヶ所霊場会こうち旅ネット、同行二人 四国霊場へんろ記、現地の案内板

感想:薄田隼人の塚が気になって参拝しました。



土佐 佐喜浜城(崎浜城。大野家源内左衛門貞義の居城)

●土佐 佐喜浜城(崎浜城)
住所:高知県室戸市佐喜浜町(字 城山)
駐車場:不明
遺構:曲輪、堀切
標高:92メートル/比高:79メートル

 北に佐喜浜川、南に唐ノ谷川が流れ東で合流するため三方に自然の濠がある地形になっている。東には水運を利用するための船着き場があったと考えられている。築城年代は不明だが城主は大野家源内左衛門貞義で、貞義の先祖は伊予国浮穴郡久万庄の大野家城主だと伝わる。土佐の大野家は最御崎寺や金剛頂寺など真言宗の寺の大工の棟梁で寺社の棟札に名が残り、安芸郡東部の領主としても勢力を誇った。
 天正2(1574)年秋、安芸国虎を滅ぼした長宗我部元親は更に東部に侵攻する。そこで源内左衛門ら安芸郡東部の連合軍は中山越(高知県室戸市羽根町)で迎え撃ち、元親自身が槍を振るうほど追い詰めたが最後は撃退された。やがて東部の領主は次々と城を落とされるか降伏し連合軍の盟主だった源内左衛門だけが残る。天正3(1575)年3月、元親は佐喜浜に攻め込むと「ここにても源内、かしこにても源内とて度々手答えしたる奴なので、この度佐喜浜の者とならば犬迄も逃さず斬り捨てろ」と兵に命じた(『元親記』)。籠城戦は不利とみた源内左衛門は打って出たが敗北して戦死し、城も攻められ女性らも殺されたという。

(全景)
全景

(西から登ると下の概略図の曲輪1に出る)
曲輪1

曲輪1

曲輪1

曲輪1

曲輪1

(曲輪1から北側を望む。向かって右に流れるのが佐喜浜川)
北側

(堀切A)
堀切A

堀切A

堀切A

(曲輪2。中央には祠がある)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

(曲輪3)
曲輪3

曲輪3

(曲輪4)
曲輪4

曲輪4

曲輪4

(曲輪5。城郭放浪記さんは堀切と書かれていたが自分には曲輪にしか見えなかった)
曲輪5

曲輪5

曲輪5

参考文献:高知県の地名、佐喜浜郷土史、長宗我部元親 50年のフィールドノート、城郭放浪記

感想:西の墓地から入ると参道の跡らしき道があるため、それに沿って行けば城に辿り着けます。ただし参道は分かりづらく下りでは迷いやすいので注意してください。
 城の麓は駐車できるようなスペースはありません。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図