2012年四国史跡巡り(4日目その4:伊予湊山城・港三島神社)

29.港三島神社・・・愛媛県松山市港山町5。伊予湊山城の麓に建つ。河野氏の崇敬が厚かった。
感想:車で行けないことはないですが、途中で駐めて歩いて行った方が無難です。

(港三島神社)

(社殿)

30.伊予湊山城・・・愛媛県松山市港山町5。建武年間(1334~1336年)に河野氏が海上の守りのため築城した。1460年代に河野氏で家督をめぐる内紛が起きた際、予州家の河野通春が拠点としている。四国征伐で廃城となった。

(写真は入り口の説明版のはずなのだがご覧の通り登るのは無理。ここで諦めて帰った。石垣や曲輪跡などがあるらしい)

(対岸の三津浜から見た伊予湊山城。港三島神社が左側に見える)

(湊山(三津)の渡し。河野通春が利用したのが始めと言われ、江戸時代には松山藩によって管理された。現在は海だが松山市道の一部である。ここで船の方に「乗りたいなら乗っていいよ」と言われたが「いえ、対岸から来たので・・・」と断った。今、考えれば駐車スペースの多いこちら側に車を駐めて伊予湊山城などを回るのも一興だったかも)


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2012年四国史跡巡り(4日目その3:伊予土居城・椿神社)

27.伊予土居城・・・愛媛県松山市土居町1059。築城年代は不明。河野氏の分家で星ノ岡の戦いで活躍した土居氏の城趾。現在は万福寺が建っており遺構はない。
感想:カーナビが星ノ岡城からの史跡で住宅街を走らせやがったので運転に気を遣った。

(万福寺の山門)

(万福寺の本堂)

(近くの公園に建つ土居・得能勤王之碑)

(同じ公園内に建つ土居通増供養塔)


28.椿神社・・・愛媛県松山市居相2丁目2ー1。伊豫豆比古命・ 伊豫豆比売命・伊与主命・愛比売命を祀る。創建は2000年以上前と伝わる。廃藩置県で伊予国はここの祭神の一人・愛比売命から県名を取って愛媛県と命名されている。
感想:愛媛の神社と言えばここなので来てみた。あと宮司さんが長宗我部さんだし。

(鳥居)

(楼門)

(勝軍八幡神社。蒙古襲来の時、伊予の領主・河野氏が出兵して勝利を収めたので帰路に豊後の宇佐八幡神社を勧請したという)

(御倉神社。宇迦之御魂神を祀る)

(拝殿に行く途中の階段にあった。この後、バリィさんのチーズケーキを買うときにお世話になりました)

(拝殿)


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2012年四国史跡巡り(4日目その2:繁多寺・星ノ岡城)

25.繁多寺・・・愛媛県松山市畑寺町32。四国八十八ヶ所霊場・第50番札所。天平勝宝年間(749~756年)、行基が『光明寺』を建立したのが始まり。空海が寺に逗留した際に『繁多寺』と改める。その後、一時衰退するが源頼義らの援助で復興。1279年には後宇多天皇の命で聞月が蒙古軍撃退を祈祷している。1288年、一遍が最後の遊行に出る前に3日間ほど籠もり亡父・如仏の追善のために三部経を奉納した。江戸時代には徳川家の庇護を受け栄えている。
感想:一遍と関係があると聞いて来てみた。

(山門)

(境内)

(本堂)

(聖天堂。夫婦和合や商売繁盛などのご利益があると言われる歓喜天像が安置されている)

(大師堂)

(ここから見る景色がいいと聞いていたのだが、どこから見ても微妙だった・・・)


26.星ノ岡城・・・松山市星岡町。後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けた伊予の土居氏・得能氏・忽那氏・大祝氏が挙兵した。1332年2月、長門探題の北条時直は討伐のため今治市に上陸したが敗退する。そこで翌月に星ノ岡城を占拠し伊予の連合軍と戦ったが、大敗し時直は身一つで撤退している。
感想:特に興味があった訳じゃないけど、何となく・・・。

(全景)

(麓に建つ雲門寺)

(山頂に建つ岡薬師堂)

(山頂に建つ星岡表忠之碑)

(他の方のサイトにはこの辺りが堀切と書いてあったが・・・私の目にはただの道にしか見えなかった)


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