2012年四国史跡巡り(5日目その2:伊予国分寺、脇屋義助・小川祐忠の墓)

36.伊予国分寺・・・愛媛県今治市国分4-1-33。四国八十八ヶ所霊場・第59番札所。741年、行基が開山。空海が滞在した際に「五大尊明王」の画像を奉納している。南北朝時代には細川頼之の兵火によって、戦国時代には長宗我部元親の兵火によって建物が焼失したため荒廃したが、江戸時代後期に復興した。
感想:例によって元親に焼かれた伝承のあるお寺。

(参道)

(握手修行大師。握手して祈ると願いが一つ叶うという)

(本堂)

(大師堂)

(白皮松。日中友好協会会長が訪中の際に空海が修行した西安市から贈呈された種子を育てたもの)

37.脇屋義助の墓・・・愛媛県今治市国分。1342年、不利となった南朝方の勢力を挽回すべく後村上天皇は新田義貞の弟・脇屋義助を伊予に向かわせた。しかし到着直後に病を発し国分寺で亡くなっている。廟堂は1669年に今治藩士によって再建されたものである。
感想:国分寺の近くにあると聞いたので参ってみた。義助の家臣は義助の死を北朝方に知られないようにするため、夜中にこっそりと墓参りをしていたらしい。

(廟堂)

(表忠碑)

(廟堂の後ろにある義助の墓)

(国分城主・小川祐忠夫妻の墓(供養塔?)。周りは家臣のものだろう。関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで知られる。義助の墓の後ろに建っていた)


38.伊予国分城(国府城)・・・愛媛県今治市唐子台。築城年代は不明。村上水軍の村上武吉が築城したという。その前の南北朝時代から存在したという説もあるため、武吉は修築しただけと思われる。四国征伐後は小早川隆景・福島正則・池田秀氏・小川祐忠と目まぐるしく城主が変わる。関ヶ原の戦いで藤堂高虎に与えられると、高虎は発展の余地のない国分城を廃城とし今治城を築城した。その際に国分城の石垣を運び去ったという。
感想:前回は結局山頂が分からず仕舞いだったため、今回はじっくりと調べて行ったので辿り着けた。と言いたいところだが、本当は下調べも空しく場所が分からなかったため近所の方に聞いて何とか辿り着けた・・・。また行けないところだったよ。

(全景)

(山頂。よう分からんことになってる)

(山頂からの風景。晴れていれば海が良く見えると思われる)


 本日はこれで終了。次の目的地である香川県に向かい夕食。香川の夜といえば、もちろん一鶴の骨付鳥。

 その後、ホテルでゆっくりした。

本日の感想:バリィさんグッズ購入に必死であまり史跡巡りが出来なかった。というか二回も来ているので行きたいところがあまりなかった・・・。

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2012年四国史跡巡り(5日目その1:延命寺・今治城・猿飛佐助の像)

 2012年5月2日(水)、今日は今治市を廻るぜ! 大雨だけどテンションは高い。

33.延命寺・・・愛媛県今治市阿方甲636。四国八十八ヶ所霊場・第54番札所。720年、行基が建立した。弘仁年間(810~824年)、空海が嵯峨天皇の命で『圓明寺』と名付けられ勅願所となる。
 戦国時代、長宗我部元親の軍勢によって釣り鐘が強奪され船で運ばれそうになったが、鐘自ら海に飛び込んで利用されるのを拒否したという伝説が残る。
 何度も火災にあって建物が焼失し、1727年に現在地に移転した。近くにある第53番札所も「円明寺」のため勘違いされることが多く、明治に入って江戸時代からの俗称であった延命寺に改名しています。
感想:元親はこの辺りは攻めていないので、もしこの伝承が正しいのなら来島氏あたりが強奪していったと思います。その鐘は今でも瀬戸内海に沈んでいるようで寺にはありません。

(1704年に鋳造された梵鐘。墓地の横にある。太平洋戦争中、供出されそうになったが逃れている)

(山門。今治城の城門の一つだったが、城が取り壊された際に移築された)

(昭和になって鋳造された釣り鐘。山門を入ってすぐにある)

(越智孫兵衛の墓。孫兵衛は七公三民で苦しんでいた村の窮状を見て藩に願い出て六公四民に年貢を下げてもらった。そのため享保の大飢饉でも餓死者が出なかった)

(本堂。団体さんがいて賑やかだった)

(大師堂)

(大師堂の近くに建つ行基の供養塔)


 この後はバリィさんグッズ購入のため今治市内を走り回った。が、それは史跡巡りとは関係ないので割愛。後日、それだけをブログに載せようと思っています。

34.猿飛佐助の像・・・愛媛県今治市北宝来町1丁目。今治駅のロータリーに建つ。立川文庫から出版された「猿飛佐助」の著者の一人・山田阿鉄の出身地が今治市だったため建てられた。
感想:バリィさんグッズ購入のついでに撮った。


35.今治城・・・今治市通町3丁目1ー3。一回ブログに載せているので説明は省略。何かバリィさんグッズがないかな、と思って寄っただけ。

(駐車場から見た今治城)

(築城奉行を務めた渡辺勘兵衛から名を取った勘兵衛石。正面の巨石がそれ。前回、これを撮り忘れたのも再訪した理由の一つ)

(裏から見た鉄御門)

(今治城と言えばこの構図かな?)

(海水を引き込むための門である海水流入樋門)

(いつ見ても立派な石垣と濠)


 この後、今治はラーメンが有名らしいので駅近くのラーメン屋に行った。麺がソーメンみたいだったが、これが今治ラーメンだったのだろうか。

(お店)

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2012年四国史跡巡り(4日目その5:太山寺・円明寺)

31.太山寺・・・愛媛県松山市太山寺町1730。四国八十八ヶ所霊場・第52番札所。587年、豊後の住人・真野長者が大阪に向かう途中、暴風雨にあったので無事を観音に祈ったところ高浜の岸に辿り着いて助かった。真野長者はその恩に報いるため豊後から大工を集めて一夜にして本堂を建てている。のちに後冷泉・後三条・堀河・鳥羽・崇徳・近衛天皇が十一面観音像を奉納した。戦国・江戸時代には松山市を治めた河野氏・加藤氏・松平氏の帰依を受けた。
感想:伊予湊山城の近くにあったので寄ってみた。ここはとにかく広く駐車場から結構歩いた。

(一の門)

(金剛力士像が安置されている国指定重要文化財・二王門。本瓦葺)

(納経所から本堂までかなり距離があるという八十八ヶ所では珍しいお寺。俺は御朱印を集めていないので寄らなかった)

(大日如来)

(三の門に続く階段)

(国宝・本堂。1305年に松山を治めていた河野氏が寄進した。本尊の十一面観音像は国指定重要文化財)

(鐘楼)

(取りあえず突いてみた)

(合格祈願でお馴染み(?)の聖徳太子堂)


 ちょっと早いけどこれにて史跡巡りは終わり。さて買い物してホテルに帰ろう、と中心地に向かっていたら八十八ヶ所のお寺が見えたので寄ってみた。

32.円明寺・・・愛媛県松山市和気町1-182。四国八十八ヶ所霊場・第53番札所。730年頃、行基が創建。その後、空海が荒廃していた建物を整備した。鎌倉時代に度重なる兵火で衰退したが、元和年間(1615~1624年)に須賀重久の手で現在地に移転される。1636年、覚深法親王の命で再建され現在の寺号となった。
感想:駐車場と境内の間が道が狭い上に交通量が多かった。ここに左甚五郎作の龍があり、行ないが悪い人が見ると目が光るらしいが見るの忘れた・・・。

(仁王門)

(マリア観音らしき像が刻まれているキリシタン灯籠。この地方では隠れキリシタンが多かったという)

(大師堂)

(中門)

(本堂。1924年にシカゴ大学のスタール博士が遍路の最中、この寺で阿弥陀如来を安置している厨子(仏像・舎利・経典などを安置する箱形の仏具。多く正面に両開きの扉をつける)に慶安3年(1650年)の銘がある銅板納札を発見した)


 今度こそ終了。その後、バリィさんのチーズケーキや夕食を買ってホテルに戻るとのんびりと過ごした。

本日の感想:今回は時間に余裕のある予定を組んだので一箇所をじっくりと見て廻った。明日はいよいよ今回のメインの一つ、今治市! バリィ! バリィ!

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