大浦城(大宝寺氏の居城)

住所:山形県鶴岡市大山3

 尾浦城、大山城とも。1532年、砂越氏によって大宝寺城を攻撃された武藤氏(大宝寺氏)は、より堅固な当城を居城とした。武藤氏は越後の上杉家の傘下となり庄内地方で勢力を広げたが、最上義光と内通した家臣・東禅寺勝正の反乱にあって落城している。その後、庄内地方を支配した最上氏、上杉氏の家臣が入ったが、1622年に最上氏が改易されると廃城となった。
 現在は大山公園となっている。

(公園前に建つ城趾碑)

(城跡の入り口に建つ三吉神社の鳥居)

(三吉神社の社殿。建っているのが城のどの辺りになるのか不明)

(嗚呼羽州太守武藤氏之碑)

(堀跡)

感想:三吉神社より上に登ることができましたが、何があるのか分からなかったため行かずに帰りました。


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十五里ヶ原古戦場(東禅寺右馬頭の墓)

住所:山形県鶴岡市友江中野

 1587年、最上義光は大浦城主・武藤(大宝寺)義興を討ち、義興の養子となっていた本庄繁長の息子・義勝を敗走させて庄内地方を手に入れる。そこで1588年に越後の上杉景勝は家臣の繁長・義勝父子を庄内地方に侵攻させた。これを迎え撃ったのが義光の家臣・東禅寺義長と勝正兄弟だったが敗北。勝正は一矢報いるため、繁長を亡き者にしようと敵陣に斬り込むが返り討ちにあっている。
 その後の戦いでも義光は敗北し庄内地方を失った。取り戻したのは関ヶ原の戦い後である。

(古戦場碑と鳥居)

(鳥居の先を進むと建つ東禅寺右馬頭(勝正)の墓)

(右馬頭の墓と同じ敷地に建つ千八百余柱慰霊之塔。東禅寺右馬頭保存会が建てている。何の慰霊塔なのか良く分からなかった)

(右馬頭の墓からガソリンスタンドを挟んで建つ手引地蔵。合戦に関係あるものらしいが由来は分からなかった)

(全景)

感想:有名な古戦場にしてはあまり整備されていませんでした。車だと行くのに迷ってしまったので、案内板を設置するなどもう少し分かりやすくしてほしいです。


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山王日枝神社(最上義光・徳川信康所縁の神社)

住所:山形県鶴岡市山王町2-26

 祭神は大己貴命など。地元では「山王様」「お山王はん」と呼ばれ親しまれている。創建年代は不明だが、出羽国田川郡大宝寺村ができる前から建っていたという。1611年、最上義光が社殿を造営して社領77石を寄進している。1622年、荘内地方を支配した酒井家からの崇敬が篤く社領98石を寄進した。
 社宝に義光が奉納した鉄鉢(鉄製の兜(かぶと)の鉢)・鰐口、和算家・阿部重道の門人が奉納した算額などがある。

(鳥居)

(拝殿)

(本殿)

(徳川家康の長男・信康を祀る復鎮霊社。酒井家の祖・忠次が信康の死に関わったため、1685年に勧請している)


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