2012年四国史跡巡り(6日目その4:金倉寺・天皇寺)

47.金倉寺・・・香川県善通寺市金蔵寺町1160。四国八十八ヶ所霊場・第76番札所。空海の甥(姪の子とも)・円珍誕生の地である。当寺は円珍の祖父・和気道善が建立し「道善寺」と名付けられたが、928年に醍醐天皇の命で地名を取って金倉寺となった。1558年、三好実休率いる三好軍が服属しない香川氏を攻めた際、この場所に陣を敷いている。
感想:東讃の有力豪族・寒川氏と香川氏の力を背景にした無量寿院が御開帳を巡って戦った寺だと思ってきたのだが・・・それは、さぬき市長尾東の宝蔵院だった。なぜ間違ったかというと、ここが「鶏足山“宝幢院”金倉寺」だったから。あと香川氏が金倉寺を支配したから、それとごっちゃになっていたようだ。そうだよな、寒川氏がここまで来るわけないよな・・・。

(入り口と手水舎)

(伝教大師・最澄と弘法大師・空海を祀る大師堂)

(訶梨帝母堂。鬼子母神を祀っている。鬼子母神は経典によって多少の相違があるが、鬼子母経によれば千人の子があったが、常に他人の子どもを殺して食べたため釈迦はこれを教化しようとその最愛の末子・愛奴を隠した。釈迦は悲嘆にくれる鬼子母を戒めて子を返し帰依させたという。手にざくろを持つ天女の姿をとり、産生と保育の神(ときには盗難除の守護)として信仰される)

(本堂)

(金箔と貼るとおかげがもらえる大黒天)

(乃木将軍妻返しの松。陸軍の師団長として香川県に赴任した乃木希典は当寺を宿舎とした。ある時、妻が東京から面会に来たが会いもせずに追い返した。その時、妻は途方に暮れてしばらくこの松の下でたたずんでいたが、希典の覚悟を知ってそのまま帰っている。その逸話からこの名が付いている。現在のは二代目)

(仁王門)


48.天皇寺・・・香川県坂出市西庄町天皇1713-2。四国八十八ヶ所霊場・第79番札所。行基の開基。その後、荒廃していた寺を空海が再興し「摩尼珠院」と名付けた。1156年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に流され当寺で崩御されている。その後、二条天皇が崇徳天皇社を建て後嵯峨天皇が現在地に移転した。神仏分離令で摩尼珠院が廃寺となったが、高照院がここに移り「金華山高照院天皇寺」となっている。
感想:駐車場が狭い! 近くの住宅は違法駐車だらけだった。こんなに駐車場が狭い八十八ヶ所は初めてだった。場所柄仕方が無いんだろうけど・・・。
 例によってここも長宗我部元親が焼いたことになっているらしい。

(三輪鳥居。左の下乗と刻んである石は源頼朝寄進のもの)

(本堂)

(大師堂)

(崇徳天皇を祀った白峰宮の拝殿)

(御神木の楠木。樹齢約500年)


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2012年四国史跡巡り(6日目その3:曼荼羅寺・甲山寺・讃岐甲山城)

45.曼荼羅寺・・・香川県善通寺市吉原町1380-1。四国八十八ヶ所霊場・第72番札所。596年、空海の実家の佐伯氏の菩提寺として建てられた。807年、唐から帰国した空海が母の菩提を弔うため伽藍を建立し大日如来を祀っている。
感想:近くに平安時代末に名を馳せた僧・西行の庵があるという案内が建っていたのだが、時間の都合で行かなかった。

(仁王門。山号の我拝師山(がはいしざん)ってインパクトがあるなあ)

(本堂の旧棟瓦)

(延命地蔵)

(本堂)

(大師堂)

(香川県有形文化財・聖観音立像が安置されている観音堂。本堂の横に建つ)

(笠松大師。ここには空海手植えの『不老松』があったが2002年に松食い虫のため枯れてしまった。そこで松の幹にこの像を刻んだ)

(香川信景の重臣・三野菊右衛門の墓。お墓は通称・五輪さんと呼ばれている。菊右衛門は長宗我部元親の三男・親和が香川氏の養子に入った際に人質として土佐に行っている)

(西行が良く昼寝をしていたという伝承が残る昼寝石)


46.甲山寺・讃岐甲山城・・・香川県善通寺市弘田町1765ー1。幼少期の空海がこの辺りで遊んでいたという。後年、空海が満濃池の工事を命じられた際に甲山の岩窟で成功を祈願し、数千人の人夫を使って3ヶ月余りで完成させた。そこで空海は感謝の意を込めて朝廷から賜ったお金の一部で甲山寺を建て薬師如来を安置している。
 背後の山は甲山城で、築城年代は不明だが香川氏の家臣で豪勇として知られた朝比奈弥太郎が築城したといわれている。1558年に三好氏が香川氏を攻めた際に190人も倒して戦死したという(弥太郎は土佐の人という説もある)。城は丸亀平野を一望でき、天霧城の出城としての役割を果たしていたという。

(山門。一の門かな?)

(二の門?)

(本堂)

(毘沙門天の岩窟。空海が掘った毘沙門天の像が祀られている)

 ここら辺から登ると城に行ける。
(曲輪跡だと思われる。お寺にはあんなに人がいたのに、城では行きも帰りも誰にも会わなかった)

(本曲輪。碑には神武天皇と孝明天皇の名前が刻んであった。城趾碑もあるらしいが分からなかった)

(丸亀平野を望む。正面の山が讃岐富士・飯野山)


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2012年四国史跡巡り(6日目その2:本山寺・勝間城)

43.本山寺・・・香川県三豊市豊中町本山甲1445。四国八十八ヶ所霊場・第70番札所。本尊は八十八ヶ所では唯一の馬頭観音である。807年、空海が創建。当初は『長福寺』という名前だったがのちに『本山寺』に改められる。
 長宗我部元親が讃岐を攻めた際、陣を置こうとしたが住職が拒んだため兵が斬りつけた。しかし住職は無事で代わりに阿弥陀如来の右手から血が流れ落ちたので、驚いた長宗我部軍は退去している。以来、その阿弥陀如来は『太刀受けの弥陀』と呼ばれている。

感想:目的はもちろん太刀受けの弥陀。右手に傷があるらしい。

(国指定重要文化財・仁王門)

(三豊市から満州を開拓に行ったが戦争のため犠牲になった人達を慰霊する仏堂)

(善女龍王像が納められている鎮守堂。なぜか野良犬がうろうろしていた。観光客が多いのに危ないのでは・・・?)

(大師堂)

(四国八十八ヶ所霊場では4つしかないという五重塔の一つ。1910年に当時の住職が寄付を募って再建している)

(空海が一夜に建立したという伝承が残る本堂。現在の本堂は京極氏の祖・佐々木氏信の寄進で建て替えられている。ここに太刀受けの弥陀があるらしいのだが、当然見ることはできない)

(大門)


44.勝間城・・・香川県三豊市高瀬町下勝間。築城年代は不明。香川信景の重臣・三野菊右衛門の居城だったと伝わる。現在は城山神社が建っており遺構はない。
感想:前日からの雨で地面がぬかるんでいた。

(城山神社の鳥居)

(拝殿)

(勝間城趾から北側を望む。右の山が天霧城だと思うのだが・・・)


 この後は昼食。香川なので当然讃岐うどんです。調べていなかったので次の目的地までにあったお店に入ってみた。

(お店)

(「かけうどん」「野菜のかき揚げ」「なすの天ぷら」のセット。丸亀製麺なんか行くと必ず頼む組み合わせ)

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