1575年2月、鹿児島県の串木野市を出発した島津家久は福岡県の門司に行き、そこから山陽側を経由して上洛。明智光秀に会い伊勢神宮や愛宕山を参詣するという貴重な体験をした後、6月には山陰経由での帰路についた。
(鳥取県東部(因幡)のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいる)
6月16日:「十六日、ひほの山とて大山を越、つくハねといへる村なれと、しつのまかなひもなく、其辺の仏にかり枕」
但馬(兵庫県北部)から因幡(鳥取県東部)に入ろうとした家久だがいきなりの難関にぶち当たっている。「ひほ(ひょう)の山」とは氷ノ山(ひょうのせん)のことで、標高1500メートルもある山だ。氷ノ山越のルートは標高1300メートルくらいだが、それでも難儀したことであろう。
無事、因幡に入り「つくハねといへる村」(鳥取県八頭郡若桜町つく米)に着くが何もないので野宿をしている。
(氷ノ山越と赤倉山。神戸観光壁紙写真集さんからお借りしました)
6月17日:「十七日、若狭の町を通けるに、其城の有主、二三日前ニ山中鹿之助謀略を以生取、若狭の城を知行し、さし籠らるゝ人數に行合候、其より行てたち井殿の城有、亦半廻の城とて有、軈而石井大膳介峯入ニとて、山法師支度にて出たゝるゝ所に行合、彼人亦跡のことく歸り、舟岡といへる町にて、夜終いにしへの事共語、宿助左衛門」
「若狭の町」(鳥取県八頭郡若桜町若桜)にあった「其城」(若桜鬼ヶ城)の「有主」(毛利氏に味方していた矢部氏)は、2~3日前に山中鹿介の謀略で生け捕られ城を奪われていた。家久が若桜を通った際、「さし籠らるゝ人數」(生け捕った連中。鹿介ら尼子再興軍の兵)とすれ違っている。
(若桜鬼ヶ城から見た南西側の景色。家久は左側のつく米方面から来ている)
(若桜駅前の通り。写真では分かりづらいが左側に鬼ヶ城がある)
若桜を過ぎた家久は「たち井殿」(丹比(たんぴ)殿)の城(場所は不明)や「半廻の城」(場所は不明)を通り過ぎると、石井大膳介という者が山で修行するため山法師の準備をしていた。そして「舟岡といへる町」(鳥取県八頭郡八頭町船岡)に着いて、(大膳介と?)夜通し昔話をしている。
6月18日:「十八日朝、大膳亮へ暇乞して行に、右の方に因幡山とて松山有、その前ニとつとり山とて城有、亦左の方に遠くひよとり尾とて城有、さて吉岡の城、同其町を通るに出湯有、各々入、其より行てけたの郡下坂本の小庵に一宿」
大膳介に別れを告げた家久は北上し、右に「因幡山」(鳥取市国府町にある標高249メートルの稲葉山)、正面に「とつとり山とて城」(鳥取市東町の鳥取城)、左に「ひよとり尾とて城」(鳥取市玉津の鵯尾城)の見える場所に出た。どこから見た景色か正確には分からないが若桜街道沿いの鳥取市紙子谷から半径一キロ圏内だと思われる。
そして「吉岡の城」(吉岡将監の城。鳥取市六反田にあった丸山城のこと)の城下町にある「出湯」(鳥取市吉岡温泉町の吉岡温泉)に入り旅の疲れを癒している。一風呂浴びた家久は「けたの郡」(気多郡。鳥取市の西部地域)の下坂本(鳥取県鳥取市気高町下坂本)まで移動し、小庵(粗末な小屋や草ぶきの小さな家のこと)に泊まっている。
(丸山城や吉岡温泉の北にある湖山池。家久くんを描いて下さったコヤマさんとは関係が無い…はず)
参考文献:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、やぶ市観光協会のサイト、鳥取県の地名、全国国衆ガイド、日本城郭大系、徒然草独歩の写日記
この度 初めて徒歩で若桜町の鬼ヶ城に登りました。米寿も近い老人で、山登りもそろそろお終いです。
鬼ヶ城は鎌倉時代の初め、矢部氏が築城。しかし天正3年6月、山中鹿之助ら尼子党により矢部氏は滅亡。この滅亡の際のドキュメントを貴殿の「家久君上京記」で知り驚きました。そんな背景から、4年前 メールした次第です。
この度 鬼ヶ城登頂を思い立ち、ふとこのページを思い出して開きました。出典をお尋ねの由。
原典は鳥取の江戸期の書物で『因幡民談記』『因幡誌』です。
貴殿のこのページには荒木又右エ門と東光寺のことが出ていますが、小生宅はその寺の檀家です。
お元気でご活躍ください。
出典を教えていただきありがとうございます。
『因幡民談記』『因幡誌』なのですね。来月、確認してみます。
東光寺のお近くですか。私は西部の人間なので縁遠いですが
鳥取市の方には身近な存在なのだと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
石見には、船で濱田に入港し、石見銀山と温泉を訪れています。石見では、多くの薩摩の食料や商品も持ち込んでいて、交易の商談があったようです。石見銀山の大田(邇摩)は当時から各地と接点が多かったようです。陸地で伯耆へ畿内からの経路には生野銀山などがあります。薩摩も金山が多いですが本州の鉱山巡りに思えます(薩摩の食料品を滞在中に船で港町に運ばせたと記載された当時の書状が残っています)。戦国を乗り切るには金銀が不可欠の世界ですね。
たち井殿・・・現・八頭町北山にある鷹山城主、丹比孫之丞。
半廻の城・・・現・八頭町船岡にある半柵(はんざこ)城。城主は伊田氏。丹比氏も伊田氏も当時は山名氏配下の国人。(と思います)
家久君日記の鳥取の記事を初めて読むことが出来ました。感謝。
小生は少し歴史に興味があるだけの、その方面では全くの素人です。
初めまして。情報ありがとうございます。
因幡のことは知らないことが多いので不明のままでした。
お手数ですが、出典などを教えていただけると助かるのですか…。
私も素人なので訳があっているのか自信がありません。
もし間違っていたら申し訳ありません。