尼子再興戦と伯耆 その6(戦いの経緯5)

○再興軍、伯耆より去る
 1571年4月下旬頃、戦況はますます尼子再興軍の不利になる。因幡での争乱が一段落し救援に駆け付けた湯原元綱が山田重直と共に岩倉城を落としている。
 同年6月14日、毛利元就が病のため死去。吉川元春は父の弔い合戦として同年7月西伯耆に進撃し、武田高信・南条宗勝の両名には東伯耆への出兵を要請している。元春は当初、大山の経悟院を攻めると広言していたが、途中で山中鹿介の籠もる末吉城に攻撃目標を変更。油断していた鹿介は脱出が不可能なほど末吉城を厳重に包囲され、8月に降伏している。
 その後、元春は八橋城や伯耆の諸城も落として、伯耆を取り返している。

(現在の大山町末吉と国信の間を流れている川。末吉城の東の堀だった船いそ川の辺りか?)

(日本海から見た末吉城。昔はこの辺りに谷川が流れており堀の役割をしていた。現在でも末吉の東西は小高い丘となっている。フラットになっていた南側には深い空堀があったという)

(米子市淀江町福岡にある伯耆寺内城跡。ここも元春によって奪回されている)


 同月には尼子勝久の籠もる真山城が落とされ出雲から撤退している。鹿介も捕らわれていた尾高城から脱出し尼子再興軍は因幡から出雲を目指すことになるが、二度と伯耆の地を踏むことはなかった。

○参考文献など
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・鳥取県史 中世
・因伯の戦国城郭 通史編
・新修 米子市史 第一巻
・大山町誌



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