尼子再興戦と伯耆 その7(残された人々)

 伯耆から尼子勝久や山中鹿介らは去ったが、そのまま残った者達もいた。
 尼子の旧臣・宮田玄達は元亀年間(1570~1573年)、中尾村(西伯郡大山町中尾)に住み田宮と姓を変え医者を生業として尼子再興の機会を待ったという。しかしその機会は訪れなかったため、田宮氏はそのまま住み着いたと伝わる。

(西伯郡大山町塩津にある浄福寺跡。田宮氏が建立したといわれ、今でも同氏の墓などが建っている)

 他にも尼子義久の物頭・山岡宇右衛門の子孫が上市村(西伯郡大山町上市)で医者を生業にしており、尼子倫久の子・倫之亮の子孫は曲村(東伯郡北栄町曲)に住み谷本姓を名乗っている。
 これらの家が本当に尼子の旧臣だったかどうかは不明だが、再興軍に協力しそのまま伯耆に残った旧臣が少なからずいたと思われる。

○参考文献など
・新修 中山町史 下巻
・新修 米子市史 第一巻
 以上です。お付き合い頂きありがとうございました。



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