住所:愛知県豊田市幸海町
1571年3月、武田信玄は信濃から三河に侵攻。4月には三河足助城を攻略し更に南下した。しかしこれを阻止しようとした徳川家康の軍勢と桑原で戦い敗れる。武田軍の武士・氏江五郎左衛門は仲間数名と撤退したが、酒呑畷で住人に襲われ討ち死にした。
後年、五郎左衛門の妻は夫の菩提を弔うため酒呑に来て庵を建てて菩提を弔っている。
(同じく酒呑畷。写真左の坂は五郎左衛門の妻が髪をおろしたので髪切り坂と呼ばれている。その右には妻の供養塔が建つ)
(妻の供養塔。氏江五郎左衛門の墓が見える場所に埋めてほしいとの遺言でここに建っている)
感想:妻の供養塔は竹藪の中、五郎左衛門の墓も道が整備されていない山の中にあり地元の方に案内してもらわないと、とても辿り着けるような場所ではありませんでした。五郎左衛門の墓の前には地元の学生が立てた案内板があるので注意深く探せば分かるかも・・・。
ここの地名の幸海町は酒呑(しゃちのみ)があまりいい漢字ではないので、40~50年前に幸海(こうかい)に変わったそうです。理由は訓読みの「さちのうみ」が「しゃちのみ」と響きが似ていただったからだとか。