住所:愛知県田原市田原町北番場
三宅氏が1664年に田原藩主となった際、旧領の西加茂郡にあった菩提寺を移転したのが始まりである。
(入り口。山号の梅坪山は現在の豊田市梅坪町(旧・西加茂郡梅ヶ坪村)にあったため、つけられた名前である)
(田原藩の重臣・真木定前の墓。酒井家から養子に入り三宅家の家督を継いだ康直は、渡辺崋山に次の家督を三宅氏の血を引く康保に譲る約束をする。しかし崋山が亡くなると康直が実子に継がせようとしたため、定前に諫言されたが聞き入れなかった。そこで定前が自害して抗議すると、康直は考えを改め康保に家督を譲ることとし、定前の忠心に報いるため当寺に葬っている)
(徳川家康に仕え活躍した三宅康貞の墓。(大名としての)三宅家初代当主なだけあって扱いが違う)
(首無し地蔵。三宅貞三郎は侍女・於阿佐と恋に落ちるが身分が違うということで離れ離れにされ、会うことを禁じられる。それでも二人は密かに会い続けたため、藩の命令で貞三郎は自害させられ、於阿佐は斬首されてしまった。二人は当寺に葬られ地蔵が建てられたが、いつの頃からか地蔵の首が落ちるようになり「首無し地蔵」と呼ばれるようになった。)
感想:豊田市にあった霊巖寺は今でも豊田市平芝町に残っています。地図で見ると平芝町は梅坪町の隣なので、昔はこの辺り一帯が梅ヶ坪村と呼ばれていたのでしょう。
ネットで検索した限り、首無し地蔵は2007年の時点では首がついていたようですが、訪れた2013年にはまた落ちてしまったようです。その首無し地蔵は「純愛地蔵様」と呼ばれ、恋の悩みがある時に願いをかけると良いことがあるらしいです。