盛親公の足跡を訪ねて

出発前夜:平成12年10月初旬、当初の予定であった7・8・9日の関ヶ原400年祭行きを中止し、突如14・15日に長宗我部盛親公の墓参りを中心に近畿への上洛を決定。予定としては一日目に盛親公が藤堂軍を撃破した八尾市を周り、二日目は京都市で盛親公の墓参りというもの。「お墓の方は場所が分かっているから、問題は八尾だなあ」ということで、インターネットで八尾を検索。案の定、合戦関係のものは一つも無かったが八尾市役所の公式ホームページがあり、そちらにメールで問い合わせる。
 翌日、八尾市役所の方から御返事の方が来ており読んで見る。やはりあまり詳しくは分からなかったとのことですが、何個所かの八尾の合戦関係の史跡の場所を教えていただく。そのメールの最後に、「八尾の合戦の簡単な地図があるホームページがありました。そちらも参考に」とのこと。「お~、あるんか。そんなサイトが」と思い、クリックすると、、、。八尾市役所の方、すいません。あの~、これ、私のホームページなんですけど、、、。まあ、本名で送った俺が悪いんですが。なんとなく先行きが不安になる。

 14日午前、広島駅から新幹線で大阪へ向かう。何度か乗り換え、八尾市内の近鉄線・久宝寺口駅に到着。当たり前だか八尾市に合戦当時の面影はなく、湿地帯だった当所もすっかり整備され平地になっていた。ほとんど資料がないので八尾市の詳細マップのみを頼りに、盛親公が大坂城へ撤退するときに敵の様子を見た松があったという場所を目指す。場所が久宝寺小学校の横ということで楽々到着。盛親公は敗北が決定的になったこの時、どのようなことを思われたんでしょうか。
(長宗我部盛親物見の松。盛親公がここにあった松の上から徳川軍の様子を覗ったとのこと。その松はすでになく僅かに記念碑が残るのみである)
長宗我部盛親物見の松
 次に八尾の戦いで亡くなった藤堂高虎軍の武士達の墓がある常光寺へ向かう。その途中、小さな川があったのでもしかしたらと思い、通り掛かりの人に、川の名前を聞く。「あ~、ここはわしらは長瀬川と呼んどる」とのこと。大分、当時の雰囲気と変わっているがそこが長宗我部盛親隊が陣を構え藤堂軍を迎え撃った場所だと判明.。盛親公、ここで指揮を取られたんだなあ、、、(しみじみ)。
(長瀬川。すっかり平地になっており雰囲気がまったく違うが、ここの堤防から長宗我部隊三百人が藤堂軍に向かって突撃した)
長瀬川
 更に歩いて5分ほどで常光寺に到着。住職さんにお願いし、藤堂高虎が討ち取った長宗我部隊の首実検をした時に使用した板を天井に上げた「血天井」と、藤堂藩七一士の墓を見学させていただく。その時の住職さんのお話しでやっとこの常光寺周辺が主戦場だったと判明。
(常光寺にある藤堂藩七一士 150年忌の碑。緊張してかなり写りが悪いです。後、血天井は言いづらくて写しませんでした・・・。言えば問題なかったのに)
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 ここで八尾での盛親公の関係は終了(はや!って思われるでしょうが、見るところこれくらいしかなかった、、、)。続いて盛親公と共に徳川軍の側面攻撃を狙った木村重成公の史跡を訪ねることにする。近鉄八尾駅からバスで北上。東大阪市との市境で降り、幸公園内にある木村重成公の墓に到着。どうもここに墓目的で来られる方は少ないらしく、公園にいた若者にかなり胡散臭そうな目で見られる。
(木村重成公の墓。元はちょっと違う場所にあったそうなのですが事情によりこちらに移転したとのこと。地元の方がいつも綺麗にされているのか、荒れ果てたりしておらずちょっと安心。何もされてない墓とかよくあるからね…)
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 続いて詳しいことが何一つ分からないのに、重成公の銅像を探し歩くことに。隣が若江だったので、「多分、この辺りやろねえ」と思い聞き回るとあっさり場所が判明。
(木村重成公の銅像。住宅街の一角にぽつんとありました。下は草茫々であまり整備されていない様子。しかも他人の駐車場通らないと行けないし)
木村重成公の銅像
 時間がなくなったので、若江で一日目はおしまい(道明寺、行きたかったな)。大阪の友達の家に泊めてもらうために大阪市街地へ戻る(この時、本に夢中でバスに乗り遅れそうになった時、「バスが来とるで~」と教えてくれた通りすがりのおば様、ありがとうございました)。無事戻り、難波で待っているが待ち合わせ場所が梅田だったと判明(梅田も難波も一緒じゃん。って一緒じゃないか・・・)。急いで梅田に向かい友達と合流。その後、3時間酒を飲みまくる。チェーンの居酒屋で飲んだにも関わらず二人で14000円。一体どんだけの量を飲み食いしたんだ、俺達は!?お蔭で次の日、二日酔いで体調が悪かった。あほだ・・・。

 翌日、10月15日、京都駅に到着。盛親公の墓は最後ということで、まずは豊国神社へ。一通り見ると奥にある宝物庫へ移動。ここで大坂夏の陣の配置図(のようなもの)を見る。
(豊国神社。ここで大阪城での豊臣家臣団展なるものがあることを知る。しかし明日は仕事…。いいなあ、近畿地方の人は。しょっちゅういろんなイベントがあって。広島も軍事マニアの人にはたまらん土地だろうけど)
豊国神社
 そして隣の方広寺へ(この時、隣なの気がつかなくて探しまわった・・・。俺ってお茶目さん)。言うまでもなく方広寺は大坂の陣開戦のきっかけとなった鐘があるところ。大坂の陣を調べている人間なら外せないだろうということで行って見る。その後、大仏殿跡に行くが入れない上に苔などが生えまくりだったのでそのまま通り過ぎました。
(方広寺の鐘。うっすらとしか写ってませんが、鐘の左側の白いところが例の「国家安康」「君臣豊楽」の文句の部分である。そんなヤクザな手で開戦に踏み切った家康の焦りが覗える。そこまで言うんだったら陣の後に鐘潰せよ、って思うのは俺だけでしょうか?)
方広寺の鐘
 次はバス・地下鉄で二条城へ移動。なぜ二条城かというと大坂の陣後、捕らえられた盛親公が処刑される前、ここの門前で縛られ付けられたので。二条城は中学生の修学旅行で来たので二度目だが、その頃は戦国・江戸にはほとんど興味なく、さらっと適当に見て回っただけだったので、うぐいすの廊下(っていうのかな?)くらいしか記憶がなかった。まあ今回もさらっと流して見ただけですが。
(二条城正門。島津家久は、ここで縛り付けられた盛親公が雨ざらしなのを見て小者に傘をさしかけろ、と言ったという。後、井伊直孝は自らの手で衣を打ちかけたとのこと)
二条城正門
 続いてはいよいよ盛親公のお墓がある蓮光寺へ向かう。かなり場所の特定に苦労したがなんとか蓮光寺の前に到着。予約していなかったのでもし断わられたらと思いつつ、呼び鈴を押す。 事情を説明すると住職の奥様が出れ来られて快く中に入れてくださり、お墓参りが出来ることに。裏の墓地に回り写真と同じ物を探すと奥の方に・・・。
 遂に盛親公のお墓と対面(だが、なぜかこの時はあまり感動がなかった。なぜだろう?後からじわじわっと来たけど)。しかしそこで重大なことに気づく。お供え物がない!仕方ないので人の土産に持ってきていた「もみじまんじゅう」をお供えする事に(まあ、ないよりはましか)。その後、盛親公の冥福を祈った後、お墓を去る。
(長宗我部盛親公のお墓。法名は「領安院殿源翁祟本大居士」。墓は少し石が欠けているのが気になったが385年も経てば仕方ないか。お墓に刻んである官位が「土佐守」となっていた)
長宗我部盛親公のお墓
 お墓参りが終わった後、住職の奥様から蓮光寺と盛親公の関係などを聞かせていただくことに。盛親公が寺子屋の師匠をやっていた頃、当時の住職・蓮光上人と交流があり、陣後、盛親公が六条河原で斬首され首を晒された時に所司代・板倉勝重に願い出て首級を寺に葬って供養したとのこと。
 ここではかなり貴重なお話しを聞かせていただいたのでそちらも一緒に載せておきます。まずは雑誌にはまったく載ったことがないんですが、盛親公の肖像画がお寺に残っており、特別なことがあった時のみ、出して一般の方に公開されるようです(「次は多分400年忌でしょうなあ。400年忌をやるかどうか分かりませんが」と奥様が言われてました)。
 次は盛親公が異母弟・長宗我部右近大夫(肥後の加藤家?に世話になっていたが、事情があり京都に移り住んでいたとのこと)に宛てた手紙がこれまたお寺に残っているそうです(どういう経緯で寺に戻って来たのかは分からないそうですが)。日付は慶長20年(1615年)正月17日となっており、内容は「今まで孫の『親胤』の面倒を見てくれてありがとう。私は多分今回の戦で死ぬだろう。だからもしそうなった時、面倒を続けて見て欲しい」というもので、その手紙と一緒に脇差を渡したということです(このお話しを聞いている最中、盛親公がすでに再戦を予期しており,、それに対しての悲壮な覚悟が伝わってきて少し目が潤んでしまいました)。この話しは疑問な点が多いのですが(聞かせていただいた話しでは1615年当時の話しなのに肥後の加藤家ではなく肥後の細川家になっているなど)、これが本当だとしたらかなりすごい話です。一体誰の子でその後どうなったんでしょうか?それが丸橋忠弥なのでしょうか?もっと詳しく知りたいです(奥様も「本当は調べないといけないんですが」といわれてました)。
 とにかく旅の最後をかなり感動的に終える事ができました。ただ一つ心残りなのは盛親公が寺子屋の師匠をしていた頃に住まれていた相国寺周辺が時間の都合で見られなかった事です。次行くときは絶対に行こうっと。
(蓮光寺の山門。住職の奥様、色々貴重な話し、誠にありがとうございました。400年忌、もしありましたら必ず行かせていただきます)
蓮光寺
感想:今回の旅で一番大きかったのはやはり盛親公の色々な話を聞けたことですが、その他には八尾の戦いが以外と狭い場所で行われたということです。地図だけ見てると距離感がつかめなかったのですが、行って見るとやっぱりそこらへんがよく分かりますね。また行きたいなあ。こういう濃い旅に。

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