小幡景憲
生没年:1572〜1663年/ 身分:徳川軍の間諜/ 官位(通称、号):勘兵衛

【武田の旧臣】武田信玄の家臣・小幡昌盛の三男。幼名・熊千代。1582年に武田家が滅亡したため徳川秀忠の小姓となる。しかし1595年に出奔し諸国を廻って兵法を学んだという。関ヶ原の戦いでは井伊直政軍に属して戦った。
大坂冬の陣では前田利常の家臣・富田重政隊に属して真田丸の攻防に参加し皆が壕の底に隠れて進めない中、景憲一人が30〜40メートル程先に進むという奮戦をする。
【スパイ】だが冬の陣後、とがめられて再び浪人となり山城の狼谷に隠遁していた。そこで大野治房が家臣の鈴木左馬助を通じて招く。しかし景憲は徳川家に戻りたいと思っていたので、松平定勝と板倉勝重の指示を仰ぎ間諜となり、豊臣軍に味方する振りをして大坂城に入った。
1615年3月13日に治房が家臣を集め軍議をしていた際、景憲は豊臣軍を混乱させるため新宮行朝の京都出兵に対して反対し、二人は口論となったが遂にはこれをやめさせている。

【疑惑】同月17日、妙心寺の長老が治房に『景憲は徳川軍の間諜で板倉勝重などに城内のことを報告をしている』という手紙を送り、また長老の弟子からも塙直之の家臣に『景憲を警戒した方がいい』という手紙が送られてきた。そこで景憲は治房の家臣達に詰問されたが「そんな人達のことを信用するのか。そんなことではとても徳川軍には勝てない」と笑い飛ばす。それを聞いた治房は「疑って悪かった。だがこれ以上疑われないように母を佐和山から呼んで、景憲は私の邸内に住んだ方がいい」と提案し、景憲はこれに従うふりをした。
治房が新居を造り始めると景憲は「家が出来るまで堺にいたい」と言い、19日に監視付で堺に行き25日には大坂に戻す。ところが26日に必ず戻ると言ってまた堺に行き、そのまま伏見に逃げ込んだ。豊臣軍はこれを追跡したが捕えらることができなかった。

【軍学家】大坂が落城するとその功で徳川家に御使番として1500石を与えられた。その後、岡本宣就・赤沢左衛門に学んで甲州流兵学を集大成し、弟子は二千人を数え山鹿素行もその一人だったという。1663年2月25日死亡。法名・道牛。神奈川県厚木市中依知の蓮生寺に葬られた。
管理人・・・徳川軍か豊臣軍か迷いましたが、気持ちは一貫して徳川方なのでそっちに入れました。『甲陽軍鑑』の作者か編集をした人だそうです。司馬遼太郎の小説『城塞
』の主役で大望を持った男として描かれていますが、調べるとどう見てもそんな風には思えないんですけど。
景憲にはこんな逸話があります。ある日、家康が景憲を呼んで「信玄公が使っていたような軍配を作ってみろ」と命令しました。そこで景憲は10日程かけてそれを完成させました。それは見た目はとても立派で素晴らしい物でしたが、家康が実際に持ってみると重すぎたため「こんな物で指揮が出来るか!」と怒り出し、地面に投げ捨てたそうです。新宮行朝を言い負かしていることといい口は上手いが、実戦は・・・と言ったところだったのでしょう。以上、スパイで有名な小幡景憲さんでした。
参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・日本の戦史 大坂の役・寛政重修諸家譜、ほか
UPDATE 2002年9月1日Copyright (C) 2002 Tikugonokami.