肥前 日野江城(日之江城、火江城、有馬城、有間城。有馬氏の居城)

●肥前 日野江城(日之江城、火江城、有馬城、有間城)
住所:長崎県南島原市北有馬町戊(字 城山、中尾、東平、馬ノ高根)
駐車場:あり
遺構:曲輪、石塁、竪堀、掘切
標高:71メートル/比高:67メートル

 国指定史跡。雲仙山系から伸びる細長い尾根上に築かれており、当時は城下近くまで海水が入り込んでいた。
 建保年間(1213~19)に有馬経澄が築城したと伝わるが、経澄なる人物は確かな史料では確認できない。城の構造から戦乱の激しくなった南北朝時代に築かれたという説が一般的である。
 明徳4年(1393)の南北朝合一後、一時は衰退していた有馬氏だったが、周防の大内氏や薩摩の島津氏などと関係を結び、明応年間(1492~1501)には当主の有馬貴純が島原半島の大半を支配下におさめ、勢力を拡大した。
 しかし佐賀の龍造寺隆信が台頭してくると有馬氏の勢力は次第に衰退。天正5年(1577)に隆信が高来郡(現在の島原市、南島原市、諫早市など)に侵攻してくると、浜城の島原純豊らが離反し、居城の日野江城も天正11年(1583)までに三度も攻められることになる。
 当主の有馬晴信はこれに対抗するためイエズス会の支援を受けることを選択。天正10年(1582)に晴信および重臣たちが洗礼を受けキリスト教に改宗した。ポルトガル船から大量の鉛や火薬を買い入れて軍備を強化し、島津義久に救援を要請。その結果、天正12年(1584)の沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍は龍造寺軍を破って劣勢を挽回することに成功した。
 天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州攻め後、豊臣政権から島原半島の大部分の4万石を認められている。
 慶長19年(1614)、晴信の子・有馬直純は日向国県(宮崎県延岡市)に移封される。代わって島原に入部した松倉重政は、当初は日野江城に入城したが、後に島原城を築城したことで日野江城は廃城となった。

(南東に駐車場が用意されており、そこの目の前にある入口から登った。大手になるらしい)
入口

入口

(二の丸。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照。ここから階段遺構が見つかった。発掘当時の写真は有馬キリシタン遺産記念館などで見られる。ここでは土師器なども大量に出ている)
二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

(二の丸と本丸の間にある帯曲輪)
帯曲輪

帯曲輪

帯曲輪

(本丸で一番広い曲輪)
広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

(上記の曲輪から南を望む。離れて見える海も当時は麓まであったのだろう)
海

(本丸の中心の曲輪。日野江神社が建っている)
中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

(本丸の北に竪堀があるので行こうとしたら立入禁止になっていた)
立入禁止

(本丸から三の丸への道が崩れたのか行けなくなっていたため、一回降りて南西側から上がった。「たいぎぃー」とは思ったけど、せっかく来たからな)
登山道

(登山道の途中にところどころキノコ栽培でもするのか穴が空いていた。それか石仏が祀ってあったのか。この登山道が南西の曲輪だったらしいが、良く分からなかった。確かに平坦な部分はあったが)
登山道

登山道

登山道

登山道

(「今、地震が起きてこの岩が落ちて来たら死ぬな」と思いながら登った)
岩

岩

(三の丸)
三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

(北西にある曲輪だったと思う)
北西にある曲輪

(尾藤碑。肥後細川家の番頭だった尾藤金左衛門は島原の乱で原城本丸に迫るが負傷し、日野江城に撤退し名号を自然石に刻んで絶命したという)
尾藤碑

尾藤碑

(全景)
全景

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編突撃!南島原情報局

感想:二回訪問した気分でした。遺構はよく残っており整備もされていて駐車場もあるためお勧めです。日野江城入口というバス停もあるため公共交通機関でも行けないことはないみたいです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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