●沖田畷古戦場(二本木神社)
住所:長崎県島原市北門町
駐車場:あり(花ぞのパン工房と共有。人気店のため駐められない可能性あり)
天正10年(1582)、肥前佐賀の大名・龍造寺隆信は勢力拡大のため島原半島に侵攻した。島原の領主だった有馬晴信は、薩摩の大名で北に勢力を延ばしていた島津義久に援軍を要請する。
天正12年(1584)、義久は弟の島津家久を島原半島に派遣し、有馬・島津連合軍は8,000人前後の兵力となった。対する龍造寺隆信は25,000人前後だったという。天正12年3月24日、森岳(のちの島原城)に布陣した家久に対し、龍造寺軍は山沿い、中央、海岸から攻撃を仕掛けたが、湿地帯で思うように兵を展開できなかったうえ、複雑な地形を熟知していた有馬・島津軍に苦戦を強いられる。山沿いでは勝利したものの、中央を突破され大将の隆信が沖田畷で戦死。龍造寺軍は大敗し、撤退を余儀なくされた。
二本木神社は竜造寺家の家臣で地元に土着した者たちが、隆信の霊を慰めるために小祠を建立したのが起源とされる。やがて病除けの神として信仰を集め「二本木様」と呼ばれるようになった。現在、神社の建つ一帯が沖田畷古戦場である。
(令和6年(2024)に移転した龍造寺隆信供養塔。何の案内もない上に神社の案内板には前の場所が記載されたままだったので、ネットで事前に調べておいて良かった。周囲の祠も沖田畷の戦いでの戦死者の供養塔で、市内には同様のものが点在しているらしい)
(神社と向かいのパチンコ店のダイナム。この辺りにはたくさんの龍造寺兵の遺体があったのだろう。ダイナムもパチンコで大負けしてしまった人達の怨念が死屍累々かもしれんが)
(二本木神社近くの有明海と対岸の熊本市。ここからフェリーを使えば熊本市中心部まで40キロで行ける)
(二本木神社近くの浜辺。現在と海岸線は違うだろうが、この辺りも龍造寺軍が進軍したのだろうか)
参考文献:長崎県の地名、長崎県大百科事典、現地の案内板、島津四兄弟の九州統一戦、観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース、島原市公式サイト
感想:ご存じの方も多いとは思いますが、畷とは「田圃のあぜ道」のことです。
龍造寺隆信の墓は長崎県島原市寺町の護国寺にもあったそうです。存在を知らなかったので、次回行ってみます。