有馬セミナリヨ跡(天正遣欧使節の出身校)

●有馬セミナリヨ跡(天正遣欧使節の出身校)
住所:長崎県南島原市北有馬町戊2633-11
駐車場:なし

 天正8(1580)年6月、有馬晴信の援助で日野江城下にセミナリヨ(セミナリオ。神学校)が創建された。天正10(1582)年に本能寺の変が起こり織田信長が亡くなると、安土のセミナリオは有馬セミナリヨに吸収される。天正遣欧使節の伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの四人も有馬セミナリヨの出身だった。豊臣秀吉がバテレン追放令を発令したため、天正16(1588)年八良尾に移る。だが、建物が粗末で場所も不便だったため、天正17(1589)年南島原市加津佐町に移転した。
 しかし豊臣秀吉の兵から逃れるため、天正19(1591)年に北有馬町の山中に移転。秀吉の兵の追求に怯えながらもラテン語などの教育を学び、ミサが行われた。文禄4(1595)年、使用人の放火で焼失してしまう。岬の教会敷地内にセミナリヨが建立された後、秀吉が亡くなったことから慶長7(1602)年に再び日野江城下に移転した。ここではラテン語、楽器、日本語などの教育が行われ、安定した学校運営が行われた。だが、慶長17(1612)年に城主の有馬直純がキリスト教を棄教して宣教師を追放したため、長崎に移転している。
 城下にあった時のセミナリヨの場所が分かっていないため、城下の中心だった場所に碑が建っている。

(有馬セミナリヨ跡)
有馬セミナリヨ跡

有馬セミナリヨ跡

(近くの辻に有馬屋形という看板があった)
有馬屋形

(近くの地蔵や水神)
地蔵や水神

地蔵や水神

参考文献:長崎県の地名長崎県の歴史散歩南島原ひまわり観光協会

感想:車を駐める場所がないので困りました。「南島原ひまわり観光協会」のサイトには「北有馬ピロティー文化センターに駐車可」とありますが、私はそこに駐めていないので本当に駐められるのかは分かりません。


金屋神社(小西行長が社木を伐採して軍船の帆柱にする)

●金屋神社
住所:長崎県東彼杵郡波佐見町金屋郷2493
駐車場:あり

 祭神は金山彦命、伊弉諾命、伊弉冉命。天平4(732)年、聖武天皇の勅願で九州に異賊鎮護の神社を創建するため、勅使・橘諸兄を当地に派遣して大和の金峯山の神を分霊したのが始まりだと伝わる。神主は橘諸兄の息子である折江舎人公行の家系が世襲したという。
 周囲には12寺6坊が建立されるほど隆盛したが、戦国時代になると当地を治めた大村純忠が洗礼を受けるほどキリスト教を信仰し、天正2(1574)年頃キリシタンによって神社仏閣の全てが焼き討ちされた(寛永14(1637)年の島原・天草一揆の際という説もある)。その後、金屋神社のみ大村藩の援助を受けて再建された。
 焼き討ちの際に御神体を佐賀県杵島郡白石町須古にあった金谷坊に避難させたため難を逃れ、文政10(1827)年に戻されている。
 朝鮮出兵の際、豊臣秀吉の使いとして小西行長が参拝し戦勝を祈願し、社木6本を伐採して軍船の帆柱とした。のちに朝鮮半島から戻った行長が願いが叶った御礼に品物を寄進したという。
 金谷山大権現、金谷宮と称していたが、明治維新後に金屋神社となった。
 寺宝として小西行長覚書、豊臣秀吉感状などがある。

(麓にある一の鳥居)
一の鳥居

(車で登って行くとある二の鳥居)
二の鳥居

二の鳥居

(大正3(1914)年役紀念の燈籠。大正3年役は第一次世界大戦のこと)
燈籠

(そこそこある石段を登る)
石段

(三の鳥居)
三の鳥居

(社叢。ここにあった6本を小西行長が伐採したのかな)
社叢

社叢

(拝殿)
拝殿

拝殿

拝殿

(社殿)
社殿

参考文献:長崎県の地名長崎県の歴史散歩、長崎県東彼杵郡誌、長崎県郷土誌、現地の案内板

感想:奥宮に行くのを忘れました。メモもしていたのに・・・。


菅無田古戦場(大村純忠と龍造寺隆信の古戦場)

●菅無田古戦場
住所:長崎県大村市宮代町
駐車場:なし

 天正5(1577)年12月、龍造寺隆信が八千の兵を率いて大村純忠の領地である萱瀬に攻め込んで来た。純忠は今富城に兵を集結させ隆信を迎え撃とうとしたが、峰弾正や一瀬半右衛門ら三百は命令を無視して菅無田砦に籠もる。龍造寺軍は2日間に渡って攻撃を加え菅無田砦の兵を全滅させることができたが、休憩のため琴平岳に本陣を置いていたところ、大村純忠が背後から強襲し撤退させることに成功している。
 古戦場にある墓は一瀬半右衛門らのものと伝わっている。

(古戦場にある四基の墓)
四基の墓

(周囲の畑)
畑

畑

参考文献:長崎県の地名長崎県の歴史散歩、新編大村市史 第2巻 (中世編)、現地の案内板

感想:『新編大村市史 第2巻 (中世編)』では、この戦いに触れておらず『長崎県の地名』でもこの戦いに大村純忠が敗れたとあり、後世の記録以外には記録がない戦いなのでしょうか。私は九州の戦国時代には疎いため真偽は分かりません。