肥前 野井城(南北朝時代の激戦地)

●肥前 野井城
住所:長崎県雲仙市愛野町甲(字 城山)
駐車場:なし
遺構:不明
標高:25メートル/比高:20メートル

 観応3年(正平7年,1352)、雲仙市千々石町方面から軍を進めた北朝方の小俣氏連に応じて、安富泰治が馳せ参じ戦闘に加わった。その泰治の軍忠状に野井城の文字が見えることから、野井城には南朝方の兵が籠もっており、北朝方に攻撃されたことが分かる。
 応安5年(文中元年,1372)、大友氏の一族の田原氏能が野井城を改築し、木村左近将監を城代として高来郡で蜂起した南朝方の攻撃を防いだ。応安6年(文中2年,1373)、今川満範が高来郡に派遣された際、愛野町は激戦地となり野井城を拠点の一つにしたという。
 天正年間(1573~1592)、有馬氏の家臣の隠岐某が居城にしたとされる。元和元年(1615)、一国一城令により廃城となった。現在は開発が進み遺構は不明瞭である。

(国道251号の北側から見た全景)
全景

(碑の手前にある曲がり角。この辺りが二の丸だったらしい)
二の丸

(城址碑。上の家のある位置が本丸だったという。昭和時代はこの辺りに姓が「本丸」の方が住まれていたそうだ)
城址碑

城址碑

参考文献:長崎県の地名、愛野町郷土史

感想:空堀跡があったそうですが分かりませんでした。昭和時代には石垣もあったようですが、現在は不明です。



法川山和銅寺(龍造寺隆信の墓碑)

●法川山和銅寺
住所:長崎県諫早市高来町法川20
駐車場:あり

 曹洞宗。和銅元年(708)、行基によって創建されたと伝えられる。本尊で県指定有形文化財の十一面観世音菩薩は、行基が彫刻したと伝わる「行基七観音」の一つである。秘仏で50年に一度開帳され、次回は2032年の予定である。
 のちに七堂伽藍が整備され慈覚が住した際、仁王像を残したと伝わる。建武年間(1334~36)、今川了俊の兵火により焼失したが、貞治2年(正平18年,1363)に菊池武光によって再建された。永禄元年(1558)、天台宗から曹洞宗へと改宗している。
 天正12年(1584)、龍造寺隆信が有馬晴信と島津家久を討つため敵地に向かう途中、和銅寺に立ち寄り、3日間滞在したとされる。のちに隆信が沖田畷の戦いで敗れると佐賀県佐賀市の龍泰寺の住職・太圭が隆信の遺体を収容し、和銅寺で荼毘に付した。その後、遺骨は佐賀へと持ち帰られた。
 寛永年間(1624~44)、天翁芳曇が再建している。

(入口)
入口

(鐘楼)
鐘楼

(本堂。仁王門が無くなったらしく、仁王像がそのまま置いてあった)
本堂

本堂

本堂

本堂

(境内の様子)
境内

境内

境内

(龍造寺隆信の墓碑。正確には火葬場跡にある供養塔。当初は土を持った塚だったが、明治2年(1869)に自然石を使って墓碑を建て、玉垣で囲んだ)
龍造寺隆信の墓碑

龍造寺隆信の墓碑

龍造寺隆信の墓碑

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、九州西国霊場曹洞宗 平安山 龍泰寺

感想:建武年間に今川了俊は九州に来ていないので、もう少し後の時代の話だと思います。
 お寺が経営している和同保育園に行く子供が、親と離れたくなかったのかギャン泣きしていたのを記憶しています。



肥前 高城(諫早城、伊佐早城、亀城。肥前西郷氏と諫早氏の居城)

●肥前 高城(諫早城、伊佐早城、亀城)
住所:長崎県諫早市高城町
駐車場:あり
遺構:曲輪、虎口、武者走り、空堀、土塁
標高:45メートル/比高:5メートル

 楕円形の山に築かれ、周囲は急峻な崖となっており北に流れる本明川が天然の濠の役割をしている。築城年代および築城者は不明。応安7年(文中3年,1374)、南朝追討のために進攻してきた今川了俊が入った船越城を高城とする説がある。文明年間(1469~1487)、三根郡(現在の佐賀県三養基郡の一部)の土豪・綾部氏の分流である西郷尚善が宇木城から高城に移って造築したという(この時、築城されたという説もある)。
 西郷氏は有馬氏に従って勢力を広げていったが、天正5年(1577)に龍造寺隆信が諫早地方に侵攻した際、和議を結んでその傘下に入った。天正15年(1587)の九州攻めで西郷信尚が豊臣秀吉について参戦せず拝謁も行わなかったため、領地を没収され龍造寺家晴が入っている。のちに肥後一揆が起きて家晴が鎮圧に向かった隙を突いて信尚は高城を奪還したが、帰国した家晴に奪回され逃亡した。
 鍋島家を藩主として佐賀藩が成立すると、家晴の息子である直孝は諫早姓に改姓し、以後は諫早家が諫早地方を支配する。高城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。

(城の西にある諫早公園。公園内には諫早の発展に近代から尽力した諫早家を顕彰する碑が建っている)
諫早公園

顕彰する碑

(城の麓には天保10年(1839)に本明川に架けられ、昭和になって移築された眼鏡橋がある)
眼鏡橋

眼鏡橋

(城東の眼鏡橋の南にある大手門跡。場所は下の縄張図を参照)
大手門跡

(折坂虎口。縄張図のU字に折れ曲がっているところである)
折坂虎口

(登り切ったところにある東の丸)
東の丸

(本丸を囲んでいる武者走り)
武者走り

武者走り

武者走り

(南西にある搦手。今は石の通路があるが、昔は堀の上に木橋が架かっていた)
搦手

搦手

搦手

搦手

(主郭部の東にある虎口)
虎口

虎口

(主郭部の東。国指定天然記念物であるクスノキの樹齢は700年前後と推測されている)
主郭部の東

主郭部の東

主郭部の東

(東にある高矢倉跡。諫早市の中心部が良く見える)
高矢倉跡

(主郭部の西にある本丸。竜造寺家の祖先の藤原鎌足を祀る藤原明神、諫早家初代の竜造寺家晴を祀る高城明神、諫早藩主が国家の安泰を祈って建てた亀の塔が建つ。周囲には土塁に見える遺構があった)
本丸

本丸

本丸

(内容と関係ないが、この日の夜に食べたトルコライス)
トルコライス

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、長崎県の歴史散歩、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、現地の案内板

感想:諫早公園は花見客がたくさんいましたが、城にはほとんど人が来ていませんでした。
 城には全体が分かる地図と遺構の場所に説明があって初心者にも優しい整備がしてあります。南に空堀や土塁があったそうですが確認するのを忘れていました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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