高城神社(龍造寺家晴を祀る)

●高城神社
住所:長崎県諫早市高城町1-5
駐車場:あり

 祭神は龍造寺家晴。家晴は龍造寺隆信の親族で隆信を補佐して大友宗麟と戦い、朝鮮出兵でも戦功を挙げた。天正15年(1587)の九州攻めの後、家晴は豊臣秀吉により福岡県柳川市の領地を没収され諫早地方を与えられる。
 後裔の諫早茂洪は天保13年(1842)に家晴を讃えるため高城跡に小さな祠を建て「家晴明神」と号した。明治15年(1882)、諫早公園に移転造築し高城神社と改称した。この時の費用は住民の寄付によるものだった。昭和32年(1957)の諫早大水害で被害を受けたため現在地に移転している。

(鳥居)
鳥居

(社殿)
社殿

社殿

(若杉霊神。寛永3年(1750)、佐賀藩が財政の立て直しのため諫早家の領地の一部を没収した。諫早領内の農民が佐賀藩の圧政に対する反発と諫早家を慕う気持ちから蜂起した際、若杉春后は主導者の一人となった。そのため処刑されるが、のちに感謝した諫早茂図が若杉霊神を建立している)
若杉霊神

参考文献:長崎県の地名、諫早市史 第3巻

感想:公園に寺社にあるようなものが建っているなと思っていたら、後で移転したことを知り理由が分かりました。



肥前 中岳砦(中岳合戦で大村純伊が本陣を構えた場所)

●肥前 中岳砦
住所:長崎県大村市中岳町
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、土塁
標高:169メートル/比高:42メートル

 郡川と南ノ川内川(南河内川)の合流点近くにある小高い丘に築かれている。文明6年(1474)の中岳合戦では大村純伊が本陣を置いた。大村軍が有馬軍に敗北して総崩れになると純伊は鳥甲城に撤退し、大村純直が守備した。しかし有馬軍が中岳砦に迫ると純直は守り切れないと判断し、火を放って鳥甲城に引いている。
 現在、主郭には山神宮の祠が祀られており参道が整備されている。

(全景。参道の存在を知らなくて南西の墓地側から直登した。場所は下の縄張図を参照)
全景

(城域の南西の石垣。城の遺構ではないらしい。祠が建てられた時のものだろうか)
南西の石垣

南西の石垣

南西の石垣

(最南端の曲輪。ここに石垣があった)
最南端の曲輪

(中央の一番大きな曲輪。三ノ曲輪になる)
中央の一番大きな曲輪

中央の一番大きな曲輪

中央の一番大きな曲輪

(三ノ曲輪と周囲に段差のある一ノ曲輪の間にある二ノ曲輪)
二ノ曲輪

二ノ曲輪

(一ノ曲輪。主郭で上記の通り、山神宮の祠が祀られている。土塁があったらしいが気がつかなかった)
一ノ曲輪

一ノ曲輪

一ノ曲輪

一ノ曲輪

(階段が虎口に見えるが・・・。その下の参道は掘切(aと書いてある箇所)。その東側は不明瞭で城域だったか分からないらしい。参道として利用されている掘切を過ぎると鋪装された道に出る)
虎口

掘切

掘切

(北の麓にあった山王大権現)
山王大権現

山王大権現

参考文献:日本城郭大系 第17巻、大村史話 続編 1、新編大村市史 第2巻 (中世編)

感想:参道の道は柵があったが扉が簡単に空いたと思います。かなり前に訪問したため記憶が曖昧です。南西の墓地側から行くメリットは少し近くなるくらいなので、北西の参道を使いましょう。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


肥前 野井城(南北朝時代の激戦地)

●肥前 野井城
住所:長崎県雲仙市愛野町甲(字 城山)
駐車場:なし
遺構:不明
標高:25メートル/比高:20メートル

 観応3年(正平7年,1352)、雲仙市千々石町方面から軍を進めた北朝方の小俣氏連に応じて、安富泰治が馳せ参じ戦闘に加わった。その泰治の軍忠状に野井城の文字が見えることから、野井城には南朝方の兵が籠もっており、北朝方に攻撃されたことが分かる。
 応安5年(文中元年,1372)、大友氏の一族の田原氏能が野井城を改築し、木村左近将監を城代として高来郡で蜂起した南朝方の攻撃を防いだ。応安6年(文中2年,1373)、今川満範が高来郡に派遣された際、愛野町は激戦地となり野井城を拠点の一つにしたという。
 天正年間(1573~1592)、有馬氏の家臣の隠岐某が居城にしたとされる。元和元年(1615)、一国一城令により廃城となった。現在は開発が進み遺構は不明瞭である。

(国道251号の北側から見た全景)
全景

(碑の手前にある曲がり角。この辺りが二の丸だったらしい)
二の丸

(城址碑。上の家のある位置が本丸だったという。昭和時代はこの辺りに姓が「本丸」の方が住まれていたそうだ)
城址碑

城址碑

参考文献:長崎県の地名、愛野町郷土史

感想:空堀跡があったそうですが分かりませんでした。昭和時代には石垣もあったようですが、現在は不明です。