中岳古戦場跡(有馬貴純と大村純伊が戦った古戦場)

●中岳古戦場跡
住所:長崎県大村市中岳町
駐車場:なし

 戦国時代、有馬氏は島原半島全体に勢力を広げ、藤津郡(現在の佐賀県鹿島市、嬉野市など)や杵島郡(現在の佐賀県武雄市、大町町、白石町など)にも進出していった。その過程で大村氏と衝突することになる。
 文明6年(1474)、有馬貴純は2000の軍勢を率いて大村氏の領土に侵攻し、飯盛山に陣を構えた。これに対し大村純伊は本陣を中岳砦に置き、家臣の大村純明、長岡越前、庄左近大夫、鈴田越前らが布陣して応戦する。長岡越前や庄左近大夫らの奮戦によって有馬軍は攻めあぐねていたが、鈴田越前が貴純に寝返ったため大村軍は総崩れとなり、長岡越前と庄左近大夫も戦死した。
 大村純伊は中岳砦を放棄して領内から脱出。長崎県の佐世保市や佐々町に潜伏した後、佐賀県唐津市の加唐島に逃れる。その時期に御家再興を祈願して伊勢参宮に参拝した際、肥前潮見城(現在の佐賀県武雄市)主・渋江公勢の家臣と知り合い、公勢の助力を得て文明12年(1480)に領地を奪回した。
 しかし、近年の研究によると、有馬氏による大村領への侵攻は文亀元年(1501)頃で、当主も貴純の息子の有馬尚鑑(純鑑)であったとする説が有力になっている。そのため、それに伴い大村純伊が領地を奪回した時期も永正4年(1507)とされ年代が下ることになる。
 いずれにせよ中岳において大村軍と有馬軍が激突したことは間違いない。

(古戦場碑)
古戦場碑

(古戦場碑、説明板、長岡越前(向かって左)、庄左近大夫(向かって右)の墓)
古戦場碑、説明板、墓

(中国地方の浪人法養が教え、大村純伊が領地を奪回した祝いとして始まったと伝わる黒丸踊の像。毎年11月28日に法養の墓のある大村市黒丸町の法養堂で行われる国指定重要無形民俗文化財である。像は大村市森園町にある)
黒丸踊の像

参考文献:日本城郭大系 第17巻、大村史話 続編 1、新編大村市史 第2巻 (中世編)

感想:近年の研究は「新編大村市史 第2巻 (中世編)」を参考にしました。「大村家記」「郷村記」などの大村藩の記録を参考にしたものが通説となっていたそうです。