西有家町須川の吉利支丹墓碑(堀作右衛門ディオゴの墓)

●西有家町須川の吉利支丹墓碑(堀作右衛門ディオゴの墓)
住所:長崎県南島原市西有家町須川の向浜共同墓地
駐車場:不明

 国指定史跡。天正18年(1590)、須川村で女性が悪魔に取り憑かれ発狂し火の中に飛び込もうとしたが、十字架の力と信徒の祈りで正気に戻ったという(フロイス「日本史」)。
 上記との直接的な関連は不明だが、向浜共同墓地にはカマボコ型の吉利支丹墓碑が存在する。日本最古のローマ字金石文が刻まれ、
「FIRI SACYE MODIOG XONE □8□3 GOXIRAI 1610 IVC 16 QEICHO 15((堀(フィリ)作右衛門ディオゴ 生年口口 御出生以来 1610年10月16日慶長15。昭和4年(1929)に出土した際には□8□3が確認できたという)」
と記されている。花十字や楔型の十字も刻んである。堀作右衛門ディオゴという人物の史料は現在のところ確認されていない。

(案内が出ていた)
案内

(風雨による劣化を防ぐため小屋(霊廟)の中に入っている。当然だが鍵がかかっていた。中の様子ははっきりと見えなかった)
小屋(霊廟)

小屋(霊廟)

小屋(霊廟)

参考文献:長崎県の地名、現地の案内板、長崎県の文化財南島原ひまわり観光協会

感想:泊まった旅館の真裏にあって窓を開けると見える場所にあったため、朝一番で参拝してきました。旅館はちょっと古かったですが綺麗で静かだったので良かったです。
 一基かと思いましたが、他にも吉利支丹墓碑があったようです。



肥前 結城城(金山城、平松城。ジョルジュ結城弥平治の居城)

●肥前 結城城(金山城、平松城)
住所:長崎県雲仙市国見町土黒己(字 城本)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、石垣
標高:85メートル/比高:9メートル

 東に土黒川、西に土黒西川が流れ、天然の濠となっている。築城年代や築城者は不明だが、土豪の城であったと伝わる。
 河内岡山城(大阪府四條畷市)の城主・結城山城守の甥である結城弥平治は熱心なキリシタンで、領内や京都で布教活動や教会の建立の援助などを行った。
 天正15年(1587)、豊臣秀吉がバテレン追放令を発令すると、結城弥平治はイエズス会宣教師のオルガンチノの小豆島への潜入を助け、同じくキリシタンである小豆島領主・小西行長から援助を受けた。天正16年(1588)に行長が肥後に移封されると、弥平治も従い矢部城(愛藤寺城。熊本県上益城郡山都町)主になった。
 慶長5(1600)年、行長が関ヶ原の戦いで敗北し斬首されると、弥平治は有馬晴信の家臣となり、結城城主となる。弥平治は領内で教会を建立し布教活動を続けたが、晴信の息子・直純の時代になると有馬領内でのキリシタン迫害が強まっていった。
 慶長18年(1613)、信仰を棄てなかった弥平治は長崎に追放される。寛永5年(1628)、弥平次は台湾の派遣船に乗船した後、消息不明となった。結城城は弥平治の追放により廃城となった。

(入口。朽ちかけている標柱が哀愁を誘う)
入口

(畑に行く道の途中に案内板が。木に隠れており知らないと見逃す)
案内板

(主郭。半分以上が林になっていた。土塁があった)
主郭

主郭

主郭

主郭

(主郭にある頌徳碑。地元の宮田地区に住んでいた織田徳丸さんが、地区のために結城城跡にあった土地を寄贈されたのを讃えているようだ)
頌徳碑

(主郭にある養蚕祖神。要するに蚕の神様で全国にあるらしい。国見町も村の主要な職業の一つに養蚕があった)
養蚕祖神

(かつては十字架だったものの残骸。経年劣化でこのようになってしまった。ジョルジュ結城弥平治が入城してから400年を記念して平成14年(2002)に建てられた)
十字架

十字架

(南側から登ったので北側に進むと虎口のようなものがあった。本来は北からだけで、南は畑に行くために作ったようだ)
虎口

(北の曲輪(二の丸?)には石塁があった)
北の曲輪

北の曲輪

北の曲輪

(北からの全景)
北からの全景

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、日本城郭大系 第17巻、国見町郷土誌、現地の案内板

感想:『国見町郷土誌』には結城弥平治の名前が「結城弥平治秀康」となっていますが、徳川家康の次男・結城秀康と次第に混同されていったのだと思います。当時、結城秀康と同姓同名を名乗ることが許されることはないでしょうから。
 近くに結城氏の墓があり行こうと思ったのですが、周囲の道が狭く駐車するところもないため諦めました。
 光専寺には結城城にあったという陣太鼓が寺宝としてあります。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図



肥前 玖島城(大村城、大村神社。大村藩の居城)

●肥前 玖島城(大村城、大村神社)
住所:長崎県大村市玖島
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、空堀、水堀、船蔵
標高:16メートル/比高:16メートル

 大村湾に突き出した半島に築かれた平城。文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵で、大村地域を支配していた大村喜前は豊臣秀吉の命により朝鮮半島に渡海する。戦場での経験から海に近い要害が防衛に適していると判断し、内陸寄りにあった居城の三城城から海沿いへの移転を決意する。しかし、移転先の選定は家中で紛糾し、二転三転した末に最終的に玖島が選ばれた。
 慶長3年(1598)、不安定な情勢に備え、喜前は加藤清正に教えを受けて急ピッチで築城し翌年には一応の完成を見た。そして城下に家臣を集住し城下町を発展させ、近世大名としての基盤を築く。しかし、急ごしらえで築城したことから不備も多く、慶長19年(1614)に喜前の息子の純頼が改築を行った。以降、大村藩は何度も改築を重ねながら、明治維新を迎えている。
 現在は城址に長崎県総合教育センター、大村神社などが建ち、大村公園として整備されている。大村神社はかつて池田山にあり、大村氏の先祖である藤原純友と大村氏一族を御霊宮大明神として祀ったのが始まりだと伝わる。明治17年(1884)、旧臣と住民の尽力によって現在地に移転している。

(三の丸跡に建つ長崎県総合教育センター。場所は下記の縄張図を参照)
三の丸跡

三の丸跡

(長崎県総合教育センターの北東にある空堀)
空堀

空堀

(空堀の北、陸上競技場の東にある曲輪)
北曲輪

北曲輪

(上記にあるイロハ坂詰櫓門)
イロハ坂

(長崎県総合教育センターと塀で囲まれた大村神社の間にある大空堀。写真では伝わらないがデカい。「堀に降りて遊ばないで下さい」という注意書きは子供と城好きに対しての警告だろう。自分も降りたくなったから)
大空堀

大空堀

大空堀

大空堀

(長崎県総合教育センターの駐車場の南にある曲輪)
南にある曲輪

南にある曲輪

(県指定史跡の大村藩お船蔵跡。元禄年間(1688~1704)、藩の船を格納するため築造された)
大村藩お船蔵跡

大村藩お船蔵跡

大村藩お船蔵跡

大村藩お船蔵跡

(大村藩主の別邸、梶山御殿。長崎県総合教育センターの西にある。閉まっていて入れなかったので、塀越しに覗いた)
梶山御殿

梶山御殿

(大村神社の南西にある南屋敷。西には大空堀、南にも空堀があり、北には櫓台があった)
南屋敷

南屋敷

南屋敷

南屋敷

南屋敷

(板敷櫓台と復元した櫓。この辺りの地名が板敷だったので、その名がついた。上からの眺めがいい。これなら敵の接近も直ぐに分かる)
板敷櫓台

板敷櫓台

板敷櫓台

(神社の駐車場になっている二の丸)
二の丸

(塀に囲まれた本丸(大村神社)の入口にある虎口門跡)
虎口門跡

虎口門跡

(境内にある貝吹石。吹くと法螺貝の音が鳴るという。龍造寺隆信が大村領の萱瀬村(大村市荒瀬町・原町・宮代町・田下町・中岳町・黒木町)に侵攻した際、貝吹石を吹いて合図に使用して龍造寺軍を追い払ったという伝承がある)
貝吹石

(大村神社の社殿)
大村神社の社殿

大村神社の社殿

(境内の様子)
境内の様子

境内の様子

(大正4年(1915)に建てられた大村喜前公遺徳碑。大村藩の基礎を築いた大村家の中興の祖として讃えられている)
大村喜前公遺徳碑

(境内の東にある玖嶋稲荷神社)
玖嶋稲荷神社

玖嶋稲荷神社

(境内の北にある搦手門跡)
搦手門跡

搦手門跡

(縄張図の東、花菖蒲園のある場所。ここは曲輪と水堀(濠)の跡になる)
曲輪と水堀(濠)の跡

曲輪と水堀(濠)の跡

(南の水堀の跡)
南の水堀の跡

南の水堀の跡

(南の水堀から神社に行く途中にある枡形門跡)
枡形門跡

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編長崎県の歴史散歩、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、現地の案内板

感想:桜の時期に行ったので人混みで疲れました。街中にある城にも関わらず遺構がよく残っており、特に大きな空堀とお船蔵跡は一見の価値があります。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について