●肥前 玖島城(大村城、大村神社)
住所:長崎県大村市玖島
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、空堀、水堀、船蔵
標高:16メートル/比高:16メートル
大村湾に突き出した半島に築かれた平城。文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵で、大村地域を支配していた大村喜前は豊臣秀吉の命により朝鮮半島に渡海する。戦場での経験から海に近い要害が防衛に適していると判断し、内陸寄りにあった居城の三城城から海沿いへの移転を決意する。しかし、移転先の選定は家中で紛糾し、二転三転した末に最終的に玖島が選ばれた。
慶長3年(1598)、不安定な情勢に備え、喜前は加藤清正に教えを受けて急ピッチで築城し翌年には一応の完成を見た。そして城下に家臣を集住し城下町を発展させ、近世大名としての基盤を築く。しかし、急ごしらえで築城したことから不備も多く、慶長19年(1614)に喜前の息子の純頼が改築を行った。以降、大村藩は何度も改築を重ねながら、明治維新を迎えている。
現在は城址に長崎県総合教育センター、大村神社などが建ち、大村公園として整備されている。大村神社はかつて池田山にあり、大村氏の先祖である藤原純友と大村氏一族を御霊宮大明神として祀ったのが始まりだと伝わる。明治17年(1884)、旧臣と住民の尽力によって現在地に移転している。
(三の丸跡に建つ長崎県総合教育センター。場所は下記の縄張図を参照)
(長崎県総合教育センターと塀で囲まれた大村神社の間にある大空堀。写真では伝わらないがデカい。「堀に降りて遊ばないで下さい」という注意書きは子供と城好きに対しての警告だろう。自分も降りたくなったから)
(県指定史跡の大村藩お船蔵跡。元禄年間(1688~1704)、藩の船を格納するため築造された)
(大村藩主の別邸、梶山御殿。長崎県総合教育センターの西にある。閉まっていて入れなかったので、塀越しに覗いた)
(大村神社の南西にある南屋敷。西には大空堀、南にも空堀があり、北には櫓台があった)
(板敷櫓台と復元した櫓。この辺りの地名が板敷だったので、その名がついた。上からの眺めがいい。これなら敵の接近も直ぐに分かる)
(境内にある貝吹石。吹くと法螺貝の音が鳴るという。龍造寺隆信が大村領の萱瀬村(大村市荒瀬町・原町・宮代町・田下町・中岳町・黒木町)に侵攻した際、貝吹石を吹いて合図に使用して龍造寺軍を追い払ったという伝承がある)
(大正4年(1915)に建てられた大村喜前公遺徳碑。大村藩の基礎を築いた大村家の中興の祖として讃えられている)
(縄張図の東、花菖蒲園のある場所。ここは曲輪と水堀(濠)の跡になる)
参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、長崎県の歴史散歩、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、現地の案内板
感想:桜の時期に行ったので人混みで疲れました。街中にある城にも関わらず遺構がよく残っており、特に大きな空堀とお船蔵跡は一見の価値があります。