●肥前 結城城(金山城、平松城)
住所:長崎県雲仙市国見町土黒己(字 城本)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、石垣
標高:85メートル/比高:9メートル
東に土黒川、西に土黒西川が流れ、天然の濠となっている。築城年代や築城者は不明だが、土豪の城であったと伝わる。
河内岡山城(大阪府四條畷市)の城主・結城山城守の甥である結城弥平治は熱心なキリシタンで、領内や京都で布教活動や教会の建立の援助などを行った。
天正15年(1587)、豊臣秀吉がバテレン追放令を発令すると、結城弥平治はイエズス会宣教師のオルガンチノの小豆島への潜入を助け、同じくキリシタンである小豆島領主・小西行長から援助を受けた。天正16年(1588)に行長が肥後に移封されると、弥平治も従い矢部城(愛藤寺城。熊本県上益城郡山都町)主になった。
慶長5(1600)年、行長が関ヶ原の戦いで敗北し斬首されると、弥平治は有馬晴信の家臣となり、結城城主となる。弥平治は領内で教会を建立し布教活動を続けたが、晴信の息子・直純の時代になると有馬領内でのキリシタン迫害が強まっていった。
慶長18年(1613)、信仰を棄てなかった弥平治は長崎に追放される。寛永5年(1628)、弥平次は台湾の派遣船に乗船した後、消息不明となった。結城城は弥平治の追放により廃城となった。
(畑に行く道の途中に案内板が。木に隠れており知らないと見逃す)
(主郭にある頌徳碑。地元の宮田地区に住んでいた織田徳丸さんが、地区のために結城城跡にあった土地を寄贈されたのを讃えているようだ)
(主郭にある養蚕祖神。要するに蚕の神様で全国にあるらしい。国見町も村の主要な職業の一つに養蚕があった)
(かつては十字架だったものの残骸。経年劣化でこのようになってしまった。ジョルジュ結城弥平治が入城してから400年を記念して平成14年(2002)に建てられた)
(南側から登ったので北側に進むと虎口のようなものがあった。本来は北からだけで、南は畑に行くために作ったようだ)
参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、日本城郭大系 第17巻、国見町郷土誌、現地の案内板
感想:『国見町郷土誌』には結城弥平治の名前が「結城弥平治秀康」となっていますが、徳川家康の次男・結城秀康と次第に混同されていったのだと思います。当時、結城秀康と同姓同名を名乗ることが許されることはないでしょうから。
近くに結城氏の墓があり行こうと思ったのですが、周囲の道が狭く駐車するところもないため諦めました。
光専寺には結城城にあったという陣太鼓が寺宝としてあります。