肥前 深江城(肥前安富氏の居城。龍造寺隆信と有馬・島津連合軍の激戦地)

●肥前 深江城
住所:長崎県南島原市深江町丙(字 古城、横馬場)
駐車場:なし
遺構:曲輪以外は不明
標高:20メートル/比高:0メートル

 深江川を天然の濠としてその北側に築かれた。文永2年(1265)に当地の地頭職を任ぜられた安富氏が支配して館を築いたのが始まりだと伝わる。南北朝時代になると安富氏は北朝に属して南朝方の有馬氏と争い、それが戦国時代まで続いた。天文年間(1532~55)、安富貞直が深江城を築城したと伝わるが、戦乱と共に館が徐々に城として拡張されていったと思われる。
 天正10年(1582)、龍造寺隆信が島原半島の支配を目論み侵攻してくると、有馬氏は島津氏の援軍と共に深江で龍造寺軍と戦っている。天正11年(1583)、有馬・島津連合軍が安徳城を落とすと、抗戦は困難と判断した安徳氏と深江城主・安富純泰は配下になった。しかし島津軍の入城に際し、純泰が約に反して入城を拒否して隆信に味方する。島津軍は深江城を攻撃するが、龍造寺軍の援軍もあって撃退された。天正12年(1584)、龍造寺軍の輸送船団が深江城に向かったが、有馬軍に阻止され物資を奪われている。同年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死して敗れると、深江城も落城した。
 城主の安富純泰は龍造寺氏を頼って佐賀へ落ち延び家臣となり、後には佐賀藩主・鍋島家に仕えている。のちに深江城の石垣は島原城の築城の際に利用された。寛永14年(1637)の島原の乱では一揆勢の一部が城址に立て籠もっている。

(出丸跡に建つ熊野神社の北側に碑が建つ。その先に見える雲仙方面が本丸だったらしい)
碑

碑

(熊野神社の西。濠かなと思って撮影した)
西

西

(深江川)
深江川

深江川

(熊野神社。周囲がちょっとした崖になっている高台にある)
熊野神社

熊野神社

熊野神社

熊野神社

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、日本城郭大系 第17巻、「突撃!南島原情報局」番組公式サイト

感想:堅固な名城だったようですが、大半が住宅地になっており今はその面影がほとんどないです。
 車を駐める場所がなくて困りました。神社も駐車場がなかったですし。



清光山江東寺(松倉重政と板倉重昌の墓)

●清光山江東寺
住所:長崎県島原市中堀町42
駐車場:なし。周囲の道も狭く車で近寄るのは危険

 曹洞宗。本尊は釈迦如来。永緑元年(1558)、有馬義純が日野江城南東の南島原市の田平地区に神竜山江月寺を創建したのが始まりである。開山は宣安明言(義純の法名、もしくは義純の子)と伝わる。
 慶長19年(1614)、有馬氏が宮崎県延岡市に移封され、松倉重政が日野江城に入城。のちに島原城を築城すると、江月寺は今村(島原市新山)に移され、寛永元年(1624)に重政が菩提寺と定め江東寺と改称する。
 寛政4年(1792)に起きた島原大変(島原半島で発生した火山災害)では伽藍、墓地、記録類が流失や埋没の被害を受けた。文政7年(1824)年、)説外実言により現在地に再建されている。
 寺宝に隠元筆扁額「獅子吼」一面などがある。

(入口が商店街の一角にある)
入口

(参道)
参道

(山門)
山門

山門

(鐘楼)
鐘楼

(本堂)
本堂

(墓地の一角に建つ松倉重政の墓。向かって右にあるのは最初の重政の墓で、中央は文政11年(1828)に再建したものである)
松倉重政の墓

松倉重政の墓

(重政の墓の隣に建つ板倉重昌の墓。重昌は島原の乱の際に幕府の上使だったが、全軍の総攻撃を行い陣頭に立ち指揮している最中、胸に銃弾を浴び戦死している。向かって右にあるのは最初の重昌の墓で、中央は文化5年(1822)に再建したものである。重政、重昌の最初の墓は共に島原大変による津波で流失して、のちに発見された)
板倉重昌の墓

(大涅槃像。文政11年(1828)、寺の再建を祝って貞寿尼僧が涅槃図を製作した。それに因んで昭和32年(1957)、板倉重昌と松倉重政の霊を供養するために建立された。横が8メートルの鉄筋コンクリート造りという巨大なものである)
大涅槃像

大涅槃像

(古い溺死者無縁塔があった(廿が上に二つで下に林は「無」の旧字体)。これも島原大変の時のものだろう)
溺死者無縁塔

(境内近くの商店街の一角にある流死供養塔。島原大変の津波で亡くなった人達を弔う供養塔である。2027年頃には道の拡張工事に伴い移転されるらしい)
流死供養塔

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩島原市公式サイト長崎新聞2025年4月30日号

感想:西(境内の裏側)以外の道が全て狭いため、近くの有料駐車場に駐めて歩いていくことを強くお勧めします。



有家町中須川のキリシタン墓碑(有家セミナリヨ跡)

●有家町中須川のキリシタン墓碑(有家セミナリヨ跡)
住所:長崎県南島原市有家町中須川353-2(字 下前田)
駐車場:なし

 永禄5年(1562)、キリスト教が島原半島に伝えられると、半島内に急速に広まり、天正10年(1582)頃には領主の有馬晴信をはじめとして約9千人の信者がいた。
 有家町内には23基のキリシタン墓があり、このうち中須川のキリシタン墓碑2基は明治33年(1900)に発見されたものである。1基には中央に窪みがあり花十字紋が刻まれており、別の1基にはカルワリオ十字紋(「干」字形をした十字紋)が見られる。
 当地は通称「寺屋敷」と呼ばれ、文禄4年(1595)にセミナリヨ(セミナリオ。イエズス会の学校)が建てられた。しかし当時はキリスト教への迫害が進んでおり、慶長元年(1597)には閉鎖した。
 有家セミナリヨで印刷された銅板画の「聖家族」「セビリヤの聖母」は、現在は長崎市の大浦天主堂で保管されている。

(二基ではなく四基に見えるが、二つで1セットってことなんだろうか)
二基

(隣接する武原神社の祠)
武原神社の祠

(全体)
全体

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、長崎県の文化財、長崎県公式サイト

感想:駐車場が無かったため近くのマルキョウで買い物をして、そのまま参拝しました。