八幡神社(島津家久が造営した神社)

●八幡神社
住所:長崎県南島原市有家町大苑498
駐車場:あり

 祭神は誉田別命。創建年代は不明。天正12(1584)年の沖田畷の戦いの直前、島津家久が八幡神社を通った際に常夜灯が揺らいでいるのを見て参拝し必勝を祈願。そして背水の陣で島原半島に上陸するために利用した船を焼き払った。そして見事勝利したことに感謝した家久は、華表(鳥居のこと)を奉納して社殿を造築したという。
 寛永14(1637)年の島原の乱で焼失したが、寛永16(1639)年に堂崎村の庄屋・伝左衛門によって再建された。寛文3(1663)年、大分県の宇佐八幡宮を勧請して合祀している。その後、近世以降に何度か再建された。

(鳥居)
鳥居

鳥居

(桜)
桜

(手水舎)
手水舎

(常夜灯)
常夜灯

(拝殿と本殿)
拝殿と本殿

(狛犬)
狛犬

(高岩権現。島原半島で信仰のある神様らしい)
高岩権現

参考文献:長崎県の地名、しまづくめ、有家町の文化財報告 第1集、角川日本地名大辞典42 長崎県

感想:島津家久が見た常夜灯(石灯籠)はもうないでしょうね。



肥前 日野江城(日之江城、火江城、有馬城、有間城。有馬氏の居城)

●肥前 日野江城(日之江城、火江城、有馬城、有間城)
住所:長崎県南島原市北有馬町戊(字 城山、中尾、東平、馬ノ高根)
駐車場:あり
遺構:曲輪、石塁、竪堀、掘切
標高:71メートル/比高:67メートル

 国指定史跡。雲仙山系から伸びる細長い尾根上に築かれており、当時は城下近くまで海水が入り込んでいた。
 建保年間(1213~19)に有馬経澄が築城したと伝わるが、経澄なる人物は確かな史料では確認できない。城の構造から戦乱の激しくなった南北朝時代に築かれたという説が一般的である。
 明徳4年(1393)の南北朝合一後、一時は衰退していた有馬氏だったが、周防の大内氏や薩摩の島津氏などと関係を結び、明応年間(1492~1501)には当主の有馬貴純が島原半島の大半を支配下におさめ、勢力を拡大した。
 しかし佐賀の龍造寺隆信が台頭してくると有馬氏の勢力は次第に衰退。天正5年(1577)に隆信が高来郡(現在の島原市、南島原市、諫早市など)に侵攻してくると、浜城の島原純豊らが離反し、居城の日野江城も天正11年(1583)までに三度も攻められることになる。
 当主の有馬晴信はこれに対抗するためイエズス会の支援を受けることを選択。天正10年(1582)に晴信および重臣たちが洗礼を受けキリスト教に改宗した。ポルトガル船から大量の鉛や火薬を買い入れて軍備を強化し、島津義久に救援を要請。その結果、天正12年(1584)の沖田畷の戦いで有馬・島津連合軍は龍造寺軍を破って劣勢を挽回することに成功した。
 天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州攻め後、豊臣政権から島原半島の大部分の4万石を認められている。
 慶長19年(1614)、晴信の子・有馬直純は日向国県(宮崎県延岡市)に移封される。代わって島原に入部した松倉重政は、当初は日野江城に入城したが、後に島原城を築城したことで日野江城は廃城となった。

(南東に駐車場が用意されており、そこの目の前にある入口から登った。大手になるらしい)
入口

入口

(二の丸。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照。ここから階段遺構が見つかった。発掘当時の写真は有馬キリシタン遺産記念館などで見られる。ここでは土師器なども大量に出ている)
二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

二の丸

(二の丸と本丸の間にある帯曲輪)
帯曲輪

帯曲輪

帯曲輪

(本丸で一番広い曲輪)
広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

(上記の曲輪から南を望む。離れて見える海も当時は麓まであったのだろう)
海

(本丸の中心の曲輪。日野江神社が建っている)
中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

中心の曲輪

(本丸の北に竪堀があるので行こうとしたら立入禁止になっていた)
立入禁止

(本丸から三の丸への道が崩れたのか行けなくなっていたため、一回降りて南西側から上がった。「たいぎぃー」とは思ったけど、せっかく来たからな)
登山道

(登山道の途中にところどころキノコ栽培でもするのか穴が空いていた。それか石仏が祀ってあったのか。この登山道が南西の曲輪だったらしいが、良く分からなかった。確かに平坦な部分はあったが)
登山道

登山道

登山道

登山道

(「今、地震が起きてこの岩が落ちて来たら死ぬな」と思いながら登った)
岩

岩

(三の丸)
三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

三の丸

(北西にある曲輪だったと思う)
北西にある曲輪

(尾藤碑。肥後細川家の番頭だった尾藤金左衛門は島原の乱で原城本丸に迫るが負傷し、日野江城に撤退し名号を自然石に刻んで絶命したという)
尾藤碑

尾藤碑

(全景)
全景

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編突撃!南島原情報局

感想:二回訪問した気分でした。遺構はよく残っており整備もされていて駐車場もあるためお勧めです。日野江城入口というバス停もあるため公共交通機関でも行けないことはないみたいです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


肥前 浜城(島原城。有馬・島津連合軍に包囲された城)

●肥前 浜城(島原城)
住所:長崎県島原市新町1丁目
駐車場:なし
遺構:不明
標高:6メートル/比高:0メートル

 寛政4年(1792)の雲仙岳の噴火とそれに伴う大津波が発生で地形が変わり(いわゆる「島原大変」)、浜城の遺構は埋没してしまった。そのため正確な位置は不明であるが、現在の弁天町付近にあったと推測されている。当時の記録に「島原の城」と記されているのは、浜城を指している。
 築城年代、築城者は不明だが、永禄6年(1563)に有馬氏の家臣で浜城主だった島原純豊が、浜城近くの岬に教会用地として与えたとルイス・フロイスの『日本史』に記されている。
 天正6年(1578)、龍造寺隆信が島原半島に侵攻してくると島原純豊は主家の有馬氏を裏切り、龍造寺氏に寝返った。天正12年(1584)3月15日、有馬・島津連合軍が浜城を包囲すると、龍造寺隆信は輸送船団を島原港に向かわせたが、連合軍による海上封鎖のため入港できず、やむなく深江城に向かった。だが、そこでも有馬軍に阻止され物資を奪われている。
 隆信は自ら軍勢を率いて島原に出陣したが、沖田畷の戦いで敗北し戦死した。そのため、浜城は落城し島原純豊は捕らえられ薩摩に送られて殺害されたという。
 その後、浜城は島津氏が管理したが、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州攻めで島津軍が南九州に撤退すると再び有馬氏の城となった。
 元和2年(1616)、松倉重政が島原に移封されると浜城に入ったが、森岳(島原城)に城を築いて移ったため、その時に廃城になったと思われる。

(城址碑。寄贈されたのは神奈川県在住の島原氏の後裔の方のようだ)
城址碑

(あとは城址碑のある中央公園を散策したが遺構らしきものは何もなかった。ここはかつて島原市立第二小学校があった)
中央公園

中央公園

中央公園

中央公園

中央公園

中央公園

中央公園

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻戦国人名事典島津四兄弟の九州統一戦、現地の案内板

感想:沖田畷の戦いの発端となった場所と言えますが、碑以外は何もないのが寂しい・・・。