●肥前 島原城(森岳城、高来城。島原藩の居城)
住所:長崎県島原市城内一丁目
駐車場:あり
遺構:曲輪、石垣、堀
標高:19メートル/比高:3メートル
島原半島東海岸の中央、そして有明海沿岸部の中央に位置する。天正12年(1584)の沖田畷の戦いでは有馬・島津連合軍が陣を敷いた。
慶長19年(1614)、長く島原半島を治めていた有馬氏が宮崎県延岡市へ移封され、代わって松倉重政が入部する。重政は、有馬氏とキリシタンの影響が色濃く残る島原を近世的な支配にふさわしい形で統治するには新たな城が必要だと考え、元和4年(1618)から築城を開始し7年の歳月をかけて完成させた。
島原を統治した重政は厳しい税の取り立てとキリシタンへの徹底的な弾圧を行う。寛永7年(1630)に重政が没した後も次の藩主となった松倉勝家にその政策が引き継がれた。耐えかねた民衆は寛永14年(1637)に蜂起し島原城に攻撃する。一揆勢は大手門の一部を破壊し桜門を攻めるなど激しい攻勢を加えたが、堅固な城と島原藩兵の鉄砲による応戦などで何とか持ち堪える。いわゆる島原の乱の始まりである。寛永15年(1638)、一揆勢は江戸幕府の軍事力により鎮圧され、勝家は改易の上切腹させられた。
代わって荒れ果てた領内を建て直すため高力忠房が移封される。その後も城主は深溝松平氏、戸田氏、再び深溝松平氏と代わった。寛政4年(1792)、雲仙岳の噴火とそれに伴う大津波が発生し、領内の村々や城下町が大きな被害を受ける(島原大変)。この時、島原城も石垣が崩落するなどの被害を受けた。
明治維新後、建物が取り壊されるが、昭和32年(1957)に島原城跡公園として開設され、その後天守閣などが復元された。
(本丸の駐車場に車を駐めると資料館になっている天守閣が目の前にどーんとある。場所は下の縄張図を参照)

(天守閣から西側(普賢岳方面)を望む。島原半島を旅していると普賢岳の存在感が大きい。鳥取県西部での大山のようなものか)

(二の丸との間の堀。深い・・・。近世は廊下橋があって二の丸との往復ができるようになっていたらしい)

(本丸には天草四郎や織田信長の像があった。四郎は分かるが信長・・・?)

(城を一通り見た後は中心街に戻ってチャンポンと一口餃子を食べた)

参考文献:長崎県の地名、長崎県の歴史散歩、日本城郭大系 第17巻、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2
感想:行くまでは原城と島原城が一緒だと思っていました。
近世城郭で幕末を除いて実戦があったのはここだけではないでしょうか。戦いの詳細を知りませんが島原城の近世城郭としての防御力を十二分に発揮したのだと思います。






































