コンスタンチノ・ドラード像(グーテンベルク式活版印刷機を日本に持ち帰る)

●コンスタンチノ・ドラード像(諫早図書館)
住所:長崎県諫早市東小路町6-30
駐車場:あり

 諫早市生まれのコンスタンチノ・ドラード(日本名は不明)は、わずか15歳でヨーロッパの活版印刷を学ぶため、天正10年(1582)の天正遣欧少年使節に随行した。そしてポルトガルのリスボンで印刷技術を習得し、天正18年(1590)にグーテンベルク式活版印刷機を日本に持ち帰っている。
 だが、その頃にはキリシタンへの弾圧が厳しくなっており、ドラードは印刷機を各地に移動させながら、秘密裏にキリスト教関連の書籍を出版し続けた。元和6年(1620)、追放されたマカオの地で病死している。
 像は諫早市内の印刷会社「昭和堂」が寄贈したものである。

コンスタンチノ・ドラード像

コンスタンチノ・ドラード像

参考文献:現地の案内板、おらしょ-こころ旅、史譚天正遣欧使節

感想:興味があったので見に行って来ました。



有馬キリシタン遺産記念館(日本の中近世のキリスト教の歴史を紹介する記念館)

●有馬キリシタン遺産記念館
住所:長崎県南島原市南有馬町乙1395
駐車場:あり

 有馬キリシタン遺産記念館は南島原市にある歴史資料館で、キリスト教の繁栄と弾圧の歴史を象徴する原城、日野江城と、17世紀では大坂の陣後でもっとも大きな戦乱となった島原・天草一揆の歴史の解説と出土品の展示を行い、映像や案内で分かりやすく紹介している。
・一般の入館料:300円
・開館時間:9時00分~17時00分
・休館日:年末年始(12月29日~翌年1月3日)
・詳細は公式サイトを参照:https://www.city.minamishimabara.lg.jp/kiji0037165/index.html

※写真は撮影禁止以外のものは載せても問題はないという確認を取って掲載している

(外観)
外観

(殉教記念碑)
殉教記念碑

(南蛮船の模型)
南蛮船の模型

(日野江城から出土した瓦や陶磁器など)
日野江城

(福井県坂井市丸岡町の台雲寺に安置されている有馬晴信像の複製)
有馬晴信像

(南蛮船絵馬。こういう和洋折衷みたいな絵馬があったのか・・・)
南蛮船絵馬

(南蛮人と南蛮犬絵)
南蛮人と南蛮犬絵

(黄金の十字架を持つ虚空菩薩像の複製。仏教とキリスト教の折衷だな)
虚空菩薩像

(島原・天草一揆の直前に蜂起について湯島で談合している様子)
湯島で談合した様子

(島原藩主の松倉勝家が年貢を納められない領民に蓑を着させて火を放った。有名な「みの踊り」の刑である)
みの踊り

(島原・天草一揆で徳川家光から追討使を任ぜられた板倉重昌だったが、原城を落とせず解任させられる不安に苛まれる。そこで重昌は正月なら敵も油断しているだろうと考え総攻撃をかけるが、反撃に遭い戦死した)
板倉重昌戦死

(原城内で祈る天草四郎と一揆勢)
祈る

(原城の発掘調査時の復元。インパクトがあり、最初は現物が置いてあるのかと思って驚いた。古墳の史料館だと古代人の骨が展示してあったりするので・・・)
復元

復元

(割引を使って入ったので悪いと思って買ったハンカチーフ)
ハンカチーフ

感想:前の史跡を見るのに時間を取られて原城に行く時間がなくなり翌日に行くことにしましたが、中途半端に時間が余ってしまいました。そこでカーナビで「どこか近くに博物館がないかな」と検索したところ、ここが出てきたので入館してみました。結果として翌日の原城の予習になって良かったです。
 写真では伝わらないことが多いので、是非、原城や日野江城とセットで行ってみてください!!



中岳古戦場跡(有馬貴純と大村純伊が戦った古戦場)

●中岳古戦場跡
住所:長崎県大村市中岳町
駐車場:なし

 戦国時代、有馬氏は島原半島全体に勢力を広げ、藤津郡(現在の佐賀県鹿島市、嬉野市など)や杵島郡(現在の佐賀県武雄市、大町町、白石町など)にも進出していった。その過程で大村氏と衝突することになる。
 文明6年(1474)、有馬貴純は2000の軍勢を率いて大村氏の領土に侵攻し、飯盛山に陣を構えた。これに対し大村純伊は本陣を中岳砦に置き、家臣の大村純明、長岡越前、庄左近大夫、鈴田越前らが布陣して応戦する。長岡越前や庄左近大夫らの奮戦によって有馬軍は攻めあぐねていたが、鈴田越前が貴純に寝返ったため大村軍は総崩れとなり、長岡越前と庄左近大夫も戦死した。
 大村純伊は中岳砦を放棄して領内から脱出。長崎県の佐世保市や佐々町に潜伏した後、佐賀県唐津市の加唐島に逃れる。その時期に御家再興を祈願して伊勢参宮に参拝した際、肥前潮見城(現在の佐賀県武雄市)主・渋江公勢の家臣と知り合い、公勢の助力を得て文明12年(1480)に領地を奪回した。
 しかし、近年の研究によると、有馬氏による大村領への侵攻は文亀元年(1501)頃で、当主も貴純の息子の有馬尚鑑(純鑑)であったとする説が有力になっている。そのため、それに伴い大村純伊が領地を奪回した時期も永正4年(1507)とされ年代が下ることになる。
 いずれにせよ中岳において大村軍と有馬軍が激突したことは間違いない。

(古戦場碑)
古戦場碑

(古戦場碑、説明板、長岡越前(向かって左)、庄左近大夫(向かって右)の墓)
古戦場碑、説明板、墓

(中国地方の浪人法養が教え、大村純伊が領地を奪回した祝いとして始まったと伝わる黒丸踊の像。毎年11月28日に法養の墓のある大村市黒丸町の法養堂で行われる国指定重要無形民俗文化財である。像は大村市森園町にある)
黒丸踊の像

参考文献:日本城郭大系 第17巻、大村史話 続編 1、新編大村市史 第2巻 (中世編)

感想:近年の研究は「新編大村市史 第2巻 (中世編)」を参考にしました。「大村家記」「郷村記」などの大村藩の記録を参考にしたものが通説となっていたそうです。