土佐 岡豊城(長宗我部氏累代の居城)

●土佐 岡豊城
住所:高知県南国市岡豊町八幡、常通寺
駐車場:あり
遺構:曲輪、竪堀、横堀、掘切、土塁、石積、井戸跡
標高:96メートル/比高:91メートル

 国指定史跡。香長平野北部の岡豊山に築かれていた。南には国分川が流れており、天然の濠と水運の便を担った。
 築城年代は不明だが、長宗我部氏の居城だった。大永元年(1521)頃、本山氏など敵対勢力によって岡豊城が攻撃され、当主だった長宗我部兼序は亡くなる。兼序の息子の国親は城を脱出し一条氏の庇護を受けた後、本山氏らと和睦し国親は岡豊城に復帰した。
 それから国親とその息子・元親は勢力を拡大し、土佐の領主たちを次々と滅ぼすか服属させ、天正3年(1575)に元親が土佐を統一している。この頃、岡豊城を改築したと推測されている。
 その後、元親は阿波・讃岐・伊予に出陣し四国の大部分を勢力下に置いたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の四国攻めにより敗北したため、土佐一国に封じられた。天正15年(1587)頃、元親は岡豊城より浦戸湾の水運を利用しやすい大高坂城(のちの高知城)に居城を移転している。
 現在は城域の北東に高知県立歴史民俗資料館が建ち、北部は岡豊山歴史公園として整備されている。

((1)に建つ高知県立歴史民俗資料館。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照)
高知県立歴史民俗資料館

高知県立歴史民俗資料館

((2)。竪堀、横堀、曲輪がある)
(2)

(2)

(2)

(2)

(2)

((2)にある竪堀)
竪堀

竪堀

竪堀

((3)の伝・厩跡曲輪。西からの攻撃に対して本城を守る出城になる。木がなければ周囲が良く見えただろう)
厩跡曲輪

厩跡曲輪

厩跡曲輪

((4)の曲輪と(3)からの竪堀。竪堀は現地で見ても分からなかった)
(4)の曲輪と(3)からの竪堀

(4)の曲輪と(3)からの竪堀

(4)の曲輪と(3)からの竪堀

(4)の曲輪と(3)からの竪堀

((5)の曲輪)
(5)の曲輪

(5)の曲輪

(5)の曲輪

(国分川。和田橋には長宗我部氏の家紋がある)
国分川

国分川

(岡豊城の全景と国分川)
全景

(伝・桑名屋敷跡)
桑名屋敷跡

((6)の船着き場)
船着き場

船着き場

((7)の東西にある曲輪と横堀らしき遺構。現地に行けば分かるが、遊歩道があるので迷うことはない。本来はこちらが大手だったと思われる)
(7)

(7)

(7)

(7)

((8)の広い曲輪。石塁は後世、畑にした時のものだろう)
広い曲輪

広い曲輪

広い曲輪

((9)の南北。ここは二つの掘切が見所である)
(9)

(9)

(9)

(9)

(9)

(9)

(9)

(9)

(9)

((10)。竪堀が渡れるように橋がある)
(10)

(10)

(10)

((11)にある主郭部南東と曲輪。横堀もあった。ここから長宗我部岡豊城址の碑が見える)
主郭部南東と曲輪

主郭部南東と曲輪

主郭部南東と曲輪

((12)の四の段)
(12)

(12)

((13)の三の段。土塁と石積がある)
三の段

三の段

((14)の詰。過去には長宗我部盛親の陣跡や模擬櫓が設置されたことがある)
(14)の詰

(14)の詰

(14)の詰

(14)の詰

(14)の詰

((15)の詰下段)
(15)の詰下段

((15)と(16)の間にある掘切と井戸跡)
掘切と井戸跡

掘切と井戸跡

((16)の二ノ段。土塁がある。東側の景色がよく見える)
(16)の二ノ段

(16)の二ノ段

(16)の二ノ段

(おまけ。ここに来る前に食べた昼食)
昼食

昼食

参考文献:高知県の地名、土佐の山城四国の名城を歩く 愛媛・高知編、国指定史跡 岡豊城跡、長宗我部元親・盛親(ミネルヴァ日本評伝選)、現地の案内板

感想:戦国大名で一番好きな長宗我部氏の居城で七回くらい行っていましたが、こうやって一周するのは初めてでした。草が伸びている箇所はあるものの全体的に整備されており、歩きやすかったです。
 (4)から国分川の辺りを日傘を差した女性が歩いていましたが、一般の観光客は来ないと思うので同じ長宗我部ファンだったと思います。
 これだけの山城を築けるとは流石は四国の覇者・長宗我部元親の居城! と言いたいところですが、高知県は大規模な山城が多いので県内では飛び抜けている訳ではないです。

(縄張図。クリックすると別タブで表示)
縄張図


掲載の縄張図について


康信山田岸寺跡(畑山氏の菩提寺)

●康信山田岸寺跡
住所:高知県安芸市畑山(字 地蔵田乙)
駐車場:なし

 真言宗で本尊は不動明王だった。蓮岸寺とも号した。畑山城主で畑山氏の祖・康信を開基として創建され、号は康信の法名である蓮岸から取っている。天正17年(1589)には寺領が1反36代余あった。寛文年間(1661~73)に曹洞宗から真言宗に改宗している。明治4年(1871)の廃仏毀釈で廃寺となり、堂宇は明治11年(1878)の畑山小学校建設の際、校舎として移転された。

(不動明王堂。これは後年に建てられたようだ)
不動明王堂

(畑山氏一族の墓があるということだが、この墓石だろうか)
畑山氏一族の墓

(祠)
祠

(境内の跡)
境内の跡

境内の跡

境内の跡

参考文献:高知県の地名、土佐戦国武将の盛衰の原因と末裔達 旧家の研究1

感想:畑山城の下山途中で参拝しました。



土佐 畑山城と畑山氏居館跡(安芸氏の家臣・畑山氏の居城)

●土佐 畑山城と畑山氏居館跡
住所:高知県安芸市畑山(字 地蔵田乙、ナロ乙)
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、土塁(居館跡はなし)
標高:240メートル/比高:71メートル

 西には安芸川の上流である畑山川が流れ、天然の濠としての役割を果たすとともに、畑山村で伐採された材木を太平洋側へ輸送する水路としても利用されていた。
 畑山氏は安芸郡の地頭・安芸実信の次男である康信が、正応元年(1288)に家を興し本拠地であった畑山村の地名を姓としたことに始まる。以後、畑山氏は安芸氏の重臣として仕えた。
 永禄12年(1569)に安芸国虎長宗我部元親に敗れ自害すると、畑山元氏と二人の息子の畑山実忠・畑山元康は、国虎の長男・千寿丸を伴い、阿波の三好家を頼って落ち延びている。
 その後、実忠と元康は元親に許されて土佐に戻るが、かつての本拠であった畑山村を領有することは叶わなかった。元康は長宗我部氏の改易後、山内氏の時代になると畑山村の庄屋を務めている。

(居館跡。畑山小学校が建っていたが廃校になり、畑山創作の里になっている。遺構は不明)
居館跡

居館跡

居館跡

(居館跡から畑山城に向かう道中には散策の順路の標識があるが、それでも迷う箇所がある。登山道は平成30年(2018)の土砂崩れの影響か落石が多かった)
標識

登山道

(登山道を登っていくと掘切1に出る。登山道と掘切の境目が分からなかった。場所は下にスクロールすると出てくる概略図を参照)
掘切1

掘切1

掘切1

(掘切2)
掘切2

掘切2

掘切2

掘切2

(主郭。土塁があった)
主郭

主郭

(一段下に降りた箇所に曲輪1があった)
曲輪1

曲輪1

(西の堀切3。以前は明確だったようだが、今は植物に覆われていてよく分からなかった)
堀切3

(畑山川。吊橋が架かっており、一人だったため飛び跳ねて揺らして遊んでいた)
畑山川

畑山川

(全景)
全景

(畑山地区を出て室戸市に行った際に食べた「SADAMARU BURGER」)
SADAMARU BURGER

SADAMARU BURGER

参考文献:高知県の地名、安芸市史 歴史編、安芸市史 概説篇、安芸市史 民俗篇、現地の案内板

感想:城郭放浪記さんのサイトの縄張図を参考に登りました。
 安芸市栃ノ木から県道210号を川沿いにひたすら北上すると畑山地区に着くのですが、離合できない箇所が多いため、運転に自信のない方は行かない方がいいです。

(概略図)
概略図