津柳合戦跡(寒川氏と三好氏の古戦場)

●津柳合戦跡
住所:香川県木田郡三木町奥山津柳
駐車場:無し

 戦国時代、昼寝城主・寒川元政と十河城主・十河景滋は不仲で度々交戦していた。大永6(1526)年、三好元長は景滋からの要請に応えて千人の兵を送り阿波から国境の三木郡津柳に侵攻する。しかし元政は動きを把握しており津柳に伏兵を置いて、休んでいた三好軍を急襲。更に間道を通って背後からも攻撃して散々に打ち破った。これを津柳合戦と呼び、同年12月4日のことであったという。
 三好軍は敗走して植田城に逃げ込んだが、体勢を立て直すと景滋らと共に寒川郡に攻め入り民家に火を放つなど乱暴を働いた。しかし香西氏・香川氏が元政を援護しようと一宮(高松市一宮町)まで出陣したため阿波に撤退している。
 古戦場は合戦田、戦死者を葬った場所は塚田と呼ばれている。

(合戦田。以前は耕作する方がおられたため畑になっていたが、現在は荒れている)
合戦田

感想:場所を特定するのに苦労しました。塚田がどこなのかは調べていません。

参考文献:三木町史、讃岐人名辞書、香川県の歴史散歩


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天霧城(香川氏の居城)

●天霧城
住所:香川県三豊市三野町大見・香川県仲多度郡多度津町奥白方
駐車場:弥谷寺の駐車場を利用

 標高382メートルの天霧山に築かれた山城。築城された年代は平安時代とも伝わるが定かでは無い。本格的な城として整備されたのは、14世紀後半に相模の香川郷(神奈川県茅ヶ崎市香川)から細川氏の被官・香川氏が讃岐に入部してからである。香川氏は西讃6郡の守護代として細川氏を支え、応仁の乱の際には細川四天王の一人として活躍した。
 戦国時代になると阿波の三好氏が台頭し讃岐にも侵攻し、永禄6(1563)年には三好実休に当城を攻められ香川信景は城を去っている。やがて香川氏は城に戻ったが天正6(1578)年に今度は長宗我部元親が讃岐に侵攻してくると降伏し、信景は元親の次男・五郎次郎を養子とした。天正13(1585)年、四国攻めで元親が秀吉に降伏し土佐一国だけの領有と許されると信景や家臣は土佐に移り城は使われなくなっている。
 現在は弥谷寺からの道が整備されている。

(隠砦跡)
隠砦跡

(しばらく進むと直進して犬走りか犬返しの険に進むかの標識がでる。犬走りの進みやすそうだったので、そちらに進んだら次第に狭くなっていき足一本が乗るかどうかの道幅になった。よほど井戸が見たいなどの理由が無い限り行かない方が良い)
犬走り

(古井戸。この辺りから進退窮まり斜面に取り付いて登った)
古井戸

(しばらく登ると曲輪らしきところに出た。ここからは登ることも出来ないくらい急だったため斜面を進んだ。これで竪堀でもあったらいよいよどうしようも無くなっただろうが何とか整備された場所に出た)
曲輪

(堀切)
堀切

(外郭部)
外郭部

(外郭部その2。北東端)
外郭部その2

(城趾碑と曲輪)
城趾碑と曲輪

(南側の善通寺市吉原町方面を望む。下の土が剥き出しの部分は採掘現場だろう)
善通寺市吉原町方面

(三の丸跡)
三の丸跡

(二の丸跡)
二の丸跡

(本丸)
本丸

(南西端の外郭。この辺りから先ほどの犬返しの険を通って弥谷寺に戻るのだが再び道を間違って善通寺市吉原町に向かってしまった。途中まで降りたが立っていられない程急斜面になり、おかしいと思い引き返したため犬返しの険に出られた)
南西端の外郭

(犬返しの険)
犬返しの険

感想:最後は完全に迷ってしまい救助を呼ぼうかと思うような状況になってしまいました。犬走りから曲輪に出た北側も危険で『香川県の歴史散歩』には「北の外郭方面は危険なので行かない方が良い」と書いてありました。
 今まで一番命の危険を感じた城巡りでした。

(縄張図)
縄張図


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弥谷寺(香川氏累代の墓所)

●弥谷寺
住所:香川県三豊市三野町大見乙70
駐車場:有り

 真言宗。四国八十八ヶ所霊場71番札所。標高382メートルの弥谷山に建ち、古くから信仰の対象であった。当寺は8世紀に行基が創建し、幼い頃の空海が獅子之岩屋で修行したと伝わる。三院六坊の大寺院だったが、天正年間の兵火で焼失し現在は僅か一院が残るのみである。

(石仏や五輪塔群)
石仏や五輪塔群

(仁王門)
仁王門

(石段が続くため体力が無い人には辛いかもしれない)
石段

(行基報恩供養塔)
行基報恩供養塔

(修行大師像。空海のことらしい)
修行大師像

(天霧城主・香川氏代々の墓。本堂西の西院跡にあったが現在の場所に移された)
天霧城主・香川氏代々の墓

(鐘楼)
鐘楼

(十王堂)
十王堂

(護摩堂)
護摩堂

(鎮守堂)
鎮守堂

(磨崖佛)
磨崖佛

(天霧城主報恩塔がこの中にあるらしいのだが、どれか分からなかった。右の香炉(?)に「為香川氏 先祖代々菩提」と刻んであった)
天霧城主報恩塔

(丸亀城主(山崎志摩守俊家)の報恩塔)
丸亀城主の報恩塔

(報恩塔の塀の瓦には山崎氏の家紋があった)
山崎氏の家紋

(本堂)
本堂

感想:ここから天霧城に行けるのですが、案内版を見て天守閣があると思ったのか行こうとした家族がいました。いつまでも尾根を歩くので諦めて引き返してましたけど。
 9年前にもここに来ましたが、その時と比べて明らかにしんどかったです…。体力が落ちたのを実感しました。


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