昌光山宗勝寺(乃美宗勝夫妻の墓)

●昌光山宗勝寺
住所:福岡県福岡市東区下原5丁目892
駐車場:あり

 曹洞宗。永禄12(1569)年、小早川隆景の右腕・乃美宗勝(浦宗勝)が妻の菩提を弔うため城代を務めた立花山城の城下に創建した。当初は真福寺と号していたが天正20(1592)年に宗勝が亡くなると宗勝寺に改号している。近世に焼失したが再建された。

(入口)
入口

(山門と参道)
山門と参道

山門と参道

(神社)
神社

(鐘楼)
鐘楼

(本堂)
本堂

(八十八ヶ所。ここを通って乃美宗勝夫妻の墓に行ける)
八十八ヶ所

八十八ヶ所

(墓に行く途中、堀のようなものがあったが「福岡県社寺図録曹洞宗 昌光山宗勝寺境内之図」を見ると小早川隆景を祀る堂の跡・・・?)
小早川隆景を祀る堂の跡

小早川隆景を祀る堂の跡

小早川隆景を祀る堂の跡

小早川隆景を祀る堂の跡

(乃美宗勝の重臣5人の墓)
乃美宗勝の重臣5人の墓

(乃美宗勝夫妻の墓。向かって左が宗勝で、右が妻の墓)
乃美宗勝夫妻の墓

参考文献:福岡県の地名、九州産業大学図書館福岡市の文化財

感想:ご覧の通り乃美宗勝夫妻の墓は山の中にあるので履き物は選んで参拝した方がいいです。



善風塚跡(筑後川の戦いで戦死した七人の武将の墓跡)

●善風塚跡
住所:福岡県小郡市大保1394(大原小学校内)
駐車場:大原小学校に駐車場があるが利用して良いか不明

 延文4(正平14,1359)年、筑後川の戦い(大保原の戦い)で南朝側の菊池武光等の軍勢と北朝の少弐頼尚等の軍勢がぶつかり、5,400以上もの戦死者が出た。後年、南朝と北朝の両軍で遺骨を集めて葬り善福寺(善風寺とも)を現在の小郡市三沢に建てて供養する。
 両軍の指揮官クラスの七人の武将の遺骨は特別に方形の塚を建て、その下に埋めて墓とした。これが善風塚(小善風と大善風)と呼ばれたが、明治時代から昭和時代に開拓や宅地化が進み更に九州鉄道(現在の西日本鉄道)の線路が通ったため失われた。善福寺も戦国時代の混乱で衰退し廃寺となっている。
 現在は4基の塚があった小善風跡は「希望の森」になっている。小学校の南に3基の塚があったという大善風跡の現在の状態は不明である。

善風塚跡

善風塚跡

善風塚跡

善風塚跡

参考文献:小郡市史跡案内 第2版、懐良親王と三井郡、小郡市埋蔵文化財調査センター福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」、小郡市埋蔵文化財調査報告書第263集「三沢寺小路遺跡6」、臨牀と研究 第69巻 第11号(平成4年11月号)

感想:休日でしたが学校内でしたので、学校などに事前の許可を取って入りました。
 善風塚跡を西に300メートル進むと陸上自衛隊 第5施設団 小郡駐屯地がありますが、門衛が夜に塚跡から白い鎧をつけた武士が出てきて前を通ったと言い出し複数人が見たと噂になったため、陸上自衛隊と小郡市で墓前祭を行ったそうです。



杜の渡し跡(筑後川の戦いの最前線)

●杜の渡し跡
住所:福岡県久留米市宮ノ陣町大杜(字村前)
駐車場:なし

 中世まで当地は水運と陸運の要衝だった。杜は恵都里(えずり、えづり)と読み、森という字だったが同訓の杜の字に変わったという(『北筑雑藁』)。延文4(正平14,1359)年、筑後川の戦いの直前に北朝の主力・少弐頼尚の軍勢の前衛が「杜ノ渡」に陣を構えている。戦いの際には菊池武光ら南朝の軍勢が渡河したという。
 碑は現在地より西の堤防の上にあったが筑後川大橋の架橋工事で現在地に移された。

(史蹟 杜渡之跡の碑。奥に見えるのが筑後川大橋)
杜渡之跡の碑

(裏には「大保原戦前官軍主力ノ渡河セシ所ナリ」と刻んである)
裏

(現在はここから筑後川がはっきりとは見えない。水量が増えれば見えるだろうが、おそらく大雨の時だろう)
筑後川

(久留米市の西端にある水天宮から長門石方面を望むと見える筑後川)
筑後川

参考文献:福岡県の地名、久留米市史 第9巻 (資料編 近世 2)、消えていく渡し船、宮ノ陣校区の文化財マップ

感想:碑の反対側に駐車しましたが道路の交通量が多く渡るのに難儀しました。当地は近世、森村という地名でした。