●俵藤太秀郷の墓
住所:鳥取県東伯郡三朝町俵原
駐車場:なし
天慶3年(940年)の天慶の乱で敗れた平将門が同町中津まで逃れたため、藤原(俵)秀郷は当地まで追ってきた。しかし相対するうちに両者とも戦いに嫌気が差し武器を捨てて土着したと伝わる。
『伯者民談記』によると過去の両者の戦いが原因で、俵原地区と中津地区が不仲だったことから両地区の住民同士での結婚は許されていなかったと記載されている。両地区の対立が古の将門と秀郷の戦いに例えられ、やがて伝説になったのではないかと思われる。
感想:当地には秀郷の五人の家来の墓もあるそうです。
「伝説になった」というのは私の勝手な推測です。地区同士のいざこざの時、腕っ節の強い男が周りから「お前、俵藤太みたいに強いなあ」と褒めそやされ、その人の墓が後に俵藤太本人に変わったのではないかとも想像してみました。